呉昌碩和東海蘭王(呉昌碩と東海蘭王)-2

更新日:2020年02月15日
閔泳翊と呉昌碩刻「甲申十月園丁再生」(写真左) と呉昌碩書「行草提海隅三丐圖詩翰軸 紙本墨筆(浙江省博物館蔵)」
 1911年夏、呉昌碩は正式に上海に居を移し、1913年初春、王一亭の紹介で北山西路九二三號(現山西北路)に引っ越しました。閔泳翊の住居「千尋竹齋」は北京路瑞康里766號(現北京東路)ですから、民国初年の上海地図で確認すると、両家の住まいは僅か蘇州川を挟んだだけの近距離にあり、双方の交流は非常に便利な条件だったと思われます。
 この時、両名の身分を考えると、閔泳翊は亡国の痛みを持ち暴飲暴食になり、意気消沈していました、呉昌碩は辛亥後に還暦を迎え、身体が弱く病気勝ちとなり、互いの病気を憐れみますが、双方の感情の起伏までは理解は出来ません。しかし、閔泳翊は政治家でありながら、特に蘭を描くことが得意の文士画家であり、呉昌碩はここまで刻印を贈っていることから、おそらく呉昌碩の蘭畫は閔泳翊の代作ではないかと筆者は考えています。
 さて、閔泳翊が呉昌碩からもらった最も古い印は1895年、呉昌碩52歳の時に「千尋竹齋」二个を贈られており、最も遅いのは1914年の「蘭阜」です。これらの印は後の1993年、韓国篆刻学会編、東方研書會発行「缶廬刻芸楣印集(權昌倫編集)」に合計241方の印影として収録されています。
 昨年、筆者はソウルで權昌倫先生にお会いし、「缶廬刻芸楣印集」編集の裏話などをお聞かせいただきました。これほどまとまった呉昌碩の印を掲載している書籍資料は貴重であり、日本版として出版出来ないか、今後の課題にしたいと考えるに至りました。
 この呉昌碩と東海蘭王の交流は、中朝篆刻芸術文化交流の証しとして非常に注目されており、直近では紫禁城出版より2018年4月刊「吳昌碩與閔泳翊 中朝篆刻藝術交流史上的一段傳奇」として上梓されています。
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