明末の快楽主義者-1
更新日:2021年12月01日
明(1368年〜1644年)第14代皇帝の万暦帝(在位1572〜1620年)は、1572年に僅か10歳で即位しました。万暦帝、諱は翊鈞、廟号は神宗、治世の元号を取って万暦帝と呼ばれました。成人するまでの10年間は内閣大学士(宰相)であった張居正に忖度し政権を委譲、国政の立て直しを計りましたが、万暦10年(1582年)に張居正が逝去すると政治には全く関心を示さなくなり、親政が始まると国家財政を無視して個人の蓄財に走るようになりました。官僚の給料すら出し惜しみ、官僚に欠員が出ても補充しないほど病的な守銭奴でした。そのくせ鄭貴妃の子・福王朱常洵を溺愛し、その結婚式に30万両もの巨額(国庫金が400万両)を投じ、また自らの墓陵(定陵)建造には金の糸目をつけないなど、まさに人格破綻者だったのです。
そして豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役、その他に寧夏のボハイの乱、播州の楊応龍の乱の鎮圧など「万暦の三征」により軍制の腐敗と相まって財政は急激に悪化しました。このように悪化した財政対策として、または自らの蓄財のため、全国に税監(宦官)徴税官を派遣して厳しく搾取を行いました。これに反発した民衆に度々、税監たちが殺傷される事件が起こっても万暦帝は廃止しませんでした。無能なトップの元で治世が続くと宦官がのさばるのは中国の歴史の常であり、放漫な宮廷財政によってたちまち国庫は底をつきました。
また、宦官の政治への介入が激しくなり官僚の反宦官派である政治結社「東林派」との激しい党争が始まり、万暦48年(1620年)7月、ついに万暦帝は58歳で逝去、6年もの歳月と800万両もの大金で造営された陵墓「定陵」に葬られました。そして息子の光宗が第15代皇帝として即位しますが、媚薬の飲み過ぎにより僅か一ヶ月で逝去、孫で光宗の息子の天啓帝がまだ16歳の若さで第16代皇帝として即位しました。その天啓帝も7年で逝去、弟の崇禎帝が即位し、ようやく宦官政治に終止符を打ちました。
次号では、明末快楽主義者のなかでも特筆すべき存在である張岱についてお話ししたいと思います。