雲峰山と天柱山-2

更新日:2022年04月15日
鄭道昭記念館入口と鄭羲下碑碑亭と原石、論経書詩碑亭と原石
 次に天柱山を登頂して「鄭羲上碑」「四言詩残刻」「遊息無題字」「天柱山銘」「此天柱之山」「東堪石室銘」などを実際にこの目で見たことは 大変ありがたい経験でした。それらの書風は六朝楷書独特の角ばった筆遣いである「方筆」ではなく、鄭道昭の書風である全体に柔らかく丸まった筆遣いである「円筆」を取り入れた「論経書詩」に代表される、彼独自の風趣を醸しだしたものです。
 鄭道昭がこのように父・鄭羲の顕彰碑を造ろうとしたきっかけは、永平3年(510年)頃に父・鄭羲と同じ光州(現在の山東省東部)刺史となったことで、領内巡視の際と次々と顕彰文を残すようになったのが「鄭羲上碑」であり、光州に帰る途中に立ち寄った雲峯山で良質の磨崖石を発見し、ここにほぼ同文を刻んだのが「鄭羲下碑」です。この記述については鄭道昭自身が鄭羲下碑の末尾に、
  永平四年歳在辛卯刊上碑。
  在直南冊(40)里天柱山
  之陽。此下碑也。以石好
  故於此刊之。
とあり、
  始めは上碑を刻したが石質
  が粗かったため、好石を見
  つけて下碑を再刻した
と言っています。 
 北宋時代に一時「鄭羲下碑」は脚光を浴び趙明誠の「金石録」にも著録されましたが、その後800年に亘って注目されなかったため、清代の「金石萃編」にも収められていません。しかし清代に北波の書論が盛んとなり、考証学者の阮元が下碑を訪問し『藝舟雙楫』において逸品と賞讃を発表し、再び、世に出ることとなりました。
 鄭道昭はそれまでの北碑とは一風異なる書風であり、運筆法に於て南朝とのつながる碑が発見されたことは書道界に大きな影響を及ぼし、再評価した阮元は南北朝双方の書の傾向をまとめた論として「北碑南帖論」を唱えました。また楊守敬は『平碑記』のなかで鄭文公碑、論経書詩、観海童詩など20余種を「其碑凡數千字、眞宇内正書大觀也。」と述べています。
 光緒6年[明治13年(1880年)]に楊守敬が我国に伝来した鄭道昭などの一万余冊にも及ぶ碑板法帖は、日下部鳴鶴、巌谷一六、中林梧竹、松田雪柯など当時の書道家に強烈な衝撃と影暮を与え、近代日本の書道藝術興隆に多大なる影響を残しました。
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