1126年の「靖康の変」で、中国・北宋は首都の開封を奪われ、一旦滅びました。翌年、徽宗の九男で、北宋最後の皇帝・欽宗の異母弟にあたる趙構が、南京で即位して高宗となり南宋(1127〜1279年)を再興しました。岳飛が活躍したのは、この北宋が滅びて南宋が建ち、北方の金国と国家の存亡をかけての戦いがはじまった、まさにその激動の真っ只中でした。
正史『宋史』によると、岳飛は金国から首都開封を奪還すべく宗沢率いる義勇軍に参加し、金国と戦うこと六度、その全てを打ち破って軍功を収めました。しかし、南宋朝廷には、それを妬み、快く思わないばかりか、危険視した人物がいました。対金和平派の代表であった宰相の秦檜[元祐5年12月25日(1091年1月17日)〜紹興25年10月22日(1155年11月18日)]です。秦檜は岳飛を陥れるべく策略を計りますが、完全な冤罪であったにもかかわらず、韓世忠に岳公の罪を問い詰められても、
「莫須有(あるかもしれぬがないかもしれぬ)」
と、ついには謀殺してしまいました。
のちの中国で、史実に基づき「軽蔑すべき売国奴・秦檜」と「その極悪人に39歳の若さで殺された悲劇の英雄・岳飛」という構図が出来るのですが、人々は民族の英雄・岳飛を忘れることなく尊敬し、やがて「岳王廟」を作り、彼を祀るとともに、岳飛を無実の罪で殺した秦檜は妻・王氏とともに上半身裸で後ろ手を縛られ、跪いた姿で像が置かれました。
この像を見ると、多くの中国人は蹴ったり、唾を吐きかけたので、柵に囲われるようになりました。余談ですが、中国の一般的な朝食として知られる「油条」は、元々は「油炸檜(油炸桧)」、つまり「油で揚げた秦檜」と言いました。練った小麦粉を秦檜の形にし、油で揚げて「ざまあみろ」と食べたのが起源です。
中国には歴史上に名だたる英雄として、『三国志』の諸葛孔明、関羽、『西遊記』の三蔵法師、始皇帝などがいますが、岳飛は「救国の英雄」として小・中学校の教科書に紹介されるなど、大人から子供まで群を抜く知名度で、間違いなく永遠に語り継がれる中国民族の英雄と言えます。