六四天安門事件-2
更新日:2018年06月15日
1976年1月8日に逝去した周恩来を追悼するべく、文革によって苦しめられた民衆が同年4月5日に起こした四五天安門事件は「第一次天安門事件」と呼ばれています。このデモ運動は周恩来追悼にささげられた花輪が北京市当局によって撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、最終的に政府による暴力的鎮圧に発展した事件でした。紛らわしいため六四天安門事件は「第二次天安門事件」とも呼ばれていますが、一般的に「天安門事件」とは、後者の六四天安門事件を指します。
人民解放軍による強引な制圧には国際的非難が集まりました。犠牲者数は正確には不明のままですが、中国共産党の公式発表によると「事件による死者は三一九人」です。しかし、中国共産党による報道規制のために客観的に確認することが不可能であり、数百人から数万人など複数の説があります。さらに天安門広場から完全にデモ隊が鎮圧された後、中国人民解放軍によって集められた死体をその場で焼却、隠匿したという情報もあります。また、最終的に天安門事件を掌握した強硬派と、その一派が現在に至るまで実権を握り続けているため、中国共産党によるこの事件の反省や謝罪の表明はなく、検証すら行われない、中国共産党政府最大のタブーの一つです。
さらに中国共産党政府は、当事件を意味するワードをインターネット検閲「金盾」の対象としていますが、特に六四天安門事件に関しては厳格で、検索エンジンで「六四天安門事件」を検索すると接続不可能になります。よって略称の六四については、「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の六四)や、「82(8の2乗で、答えが64=6月4日)」などの隠語を使うことがあるようです。
事件から28年以上が経過した現在でも、中国国内では天安門事件の記事への接続規制があって見ることは出来ませんし、衛星放送など海外ニュースが天安門事件を報じると、突如放送が停止されるなど、当局ぐるみで事件の隠匿が行われています。そのため、天安門事件以降に学校教育を受けた世代は、この事実を殆ど知らず、または暴徒が中国人民解放軍を襲ったと誤認している状況にあります。しかし、留学など海外に出て初めて事件の真実を知りショックを受けるということもあるようです。
結果的に、中国共産党に失望して亡命した活動家は多く(14名)、民主化運動は一気に下火となりました。世界で最も有名な中国民主運動家の一人、王丹(1969年2月26日〜)氏は昨年、天安門事件記念日に合わせ東京で開催された「天安門事件追悼集会」にゲストとして再来日し話題となりました。
また、最近、テレビでよく見かける日本に帰化した拓殖大学客員教授で評論家の石平(1962年1月30日〜)氏が中国関連ニュース番組や討論番組などでコメンテーターとして活躍しています。中国の真の意味での民主化にはまだまだ時間を要することでしょう。