初代皇帝・始皇帝- 2
更新日:2018年08月15日
こうして全ての権力を手にした始皇帝は、残るどうしても手に入れたいものを欲するようになりました。それは「不老不死」で、神仙思想に傾倒することで仙人の境地に達すると思い込み、さらには方士・徐福に命じて不老不死の薬を探させます。「史記 秦始皇本紀第六」に、
二十八年…、南登琅邪大楽之留三月乃徒黔
首三万戸琅邪臺下
二十八年…、(始皇帝は)南、琅邪に登
る。おおいにこれを楽しみ、
留まること三ヶ月。人民三
万戸を琅邪臺の下に移した。
とあります。
徐市など方士の費用は巨万に至りましたが、結局は不老不死の薬を手に入れることは出来ず、そればかりか、いたずらに方士たちは不当利益を得ているという告発が日ごとに増えました。やがて身の危険を感じた二人の方士、盧生と侯生、さらに始皇帝から仙人への貢物までだまし取った徐福までもが始皇帝の前から姿を消しました。それでも始皇帝は不老不死を祈る儀式を行い、ついには人体には有毒である水銀に不死の効果があると思うまでになりました。
前210年、始皇帝は都の咸陽から五度目の巡行に出て、自ら海へ出て大魚を射殺しました。その後、会稽(浙江省)から山東半島を巡り、沙丘(河北省平郷)に至ったところで発病しました。自らの最後を悟った始皇帝は、側近の宦官・趙高に長子・扶蘇宛の書簡「咸陽に戻り、自分の霊柩車を迎えて葬儀を行うよう」を託しました。しかし、始皇帝が中国統一を果たしてわずか11年後、咸陽へ帰還できないまま紀元前210年9月10日に始皇帝は崩御しました。
そこで趙高は丞相・李斯と始皇帝の末子・胡亥を取り込み、偽造した手紙を利用して、扶蘇と将軍・蒙恬を自殺に追い込みました。そして始皇帝崩御の翌年に凡庸な胡亥が二世皇帝として即位するや、陳勝・呉広の乱が発生し、秦は下り坂を転がり落ちるように一気に滅亡へと突き進み、ついに項羽によって滅ぼされるのでした。
自身が有能過ぎたため過信した始皇帝が、自分以上の人材を見つけられなかったのでしょうか。権力を手にしても淋しい末期だった絶対君主の典型だと思います。