また上海の善男善女の浄財を集め、さらに杭州では多くの自身の書画を寄贈して資金を調達し、梵鐘「幽冥鐘」を作りました。
幽冥鐘は黄銅鋳造で、高さ1.69メートル、口径1.21メートル、重量1.56トン、周囲に「普聞鐘声・冥陽両利」と刻されています。
災害後一年が経過して、日本側が幽冥鐘の受け取りを表明、幽冥鐘は杭州から上海を経由して横浜に送られました。ところが、幽冥鐘を受け取った当時の東京市には幽冥鐘を安置する鐘楼建設を行う予算がなく、仮安置という手段を取るしかありませんでした。
そこで王一亭は日本領事館を通じて趙子雲、呉待秋、姚★(鹿の下に呉)琴、王季眉、王个★(竹冠+移)の有志5名による書画作品を日本美術協会展覧会に非売展示し、会期修了後に売却して得た資金を建設費用に充当し、1930年10月1日、遂に東京両国の東京震災記念堂(都慰霊堂)が建設され、鐘楼落成式、始鐘式、追善供養式が行われました。以降毎年9月1日の震災が起きた同時刻11時58分に鐘楼にて梵鐘を鳴らしています。
これまで比類ない大震災に見舞われた当時の日本は経済的困窮を迎えましたが、それを打開するべくして日本軍は中国侵略を企てました。日中国交関係は次第に悪化し、そのため親日家であった自身の身の危険を感じた王一亭は香港に避難しました。しかしすでに高齢であった王一亭は体調を崩してしまいます。家族に会うべく僅か一年で上海行きの船に乗り込みますが、その船中で倒れ、意識不明のまま上海に戻り、遂には帰らぬ人となりました。
王一亭の「救済親善、隣人互助」の働き掛けは、筆者も含めて日本で詳細までは知られていないと思われ、非常に残念な思いをするとともに、王一亭のこの精神を伝承していかなければならないと感じています。