呉昌碩と白石六三郎
更新日:2019年08月01日
清末民国時代から近代にかけて、詩書画印全てに精通する「四絶」と称賛され、独創的な生き方をした中国最後の文人・呉昌碩(1844〜1927)がいます。呉昌碩は晩年こそ売画生活で身を立てましたが、幼少の頃は決して裕福ではなく、父に学んだ篆刻をするにも家計が苦しくて石印材が買えなかったようで、レンガに釘で文字を刻していたそうです。しかし1903年、葉銘、丁仁、王=A呉隠らと西湖湖畔で印學のメッカ・西☆印社を設立、推挙されて初代社長に就任しました。以降、上海を中心に活躍、不動の地位を築きあげました。呉昌碩は晩年、順風満帆な藝術家人生を送ったように思えますが、実際には妻・施酒の健康状態が優れず治療費や薬代が必要となり、また多額の借金を抱えた二人の息子、呉涵と呉東邁の後始末に追われ、心身共に千辛万苦な日々を過ごしました。弊社刊「呉昌碩手札詩巻合刊に友人でスポンサーでもあった沈石友に充てた尺牘に、
金揮潤筆償児債、紙録単方療婦★。
金は潤筆をふるって児の債をつぐない、紙は単方を録して婦の病を療す。
とあり、金を返済せんとする心情を吐露していた事実もあります。
呉昌碩は、光緒13年(1887)、44歳のときに上海へと移り住みました。そこで実業家で画家・王一亭(1867〜1938)と出会い、師友として親交を深め、創作芸術の礎を築きました。二人は書画篆刻界に新風を巻き起こし、これに刺激を受けた多くの芸術家が上海に集まり、やがて「海上派藝術」としての栄華を極めました。当時、上海には長崎出身の料亭主人・白石六三郎(旧姓:武藤 六三郎 1868〜1934)がいました。彼は明治元年(1868年)銀屋町に生まれ、白石家の婿養子となり、上海に渡りました。そして1908年に北四川路地区(現・西江湾路)に6,000坪の土地を購入 1912年に共同租界内にある日本料理店「六三亭」の支店として純日本庭園兼料理店「六三花園(六三園とも)」を開店しました。
六三花園は、木造二階建てで、一階の縁側周りに取り外し可能な引き戸が設けられ、ここで半屋外の縁側空間と日本庭園を楽しめたそうです。また六三花園は別名「日本公園」とも呼ばれ、敷地内に諏訪神社(のちに滬上神社に改称)を設立し 芝生を敷き詰めた広い庭園は憩いの場として日本人居留民に無料開放し 日本文化の象徴となりました。庭園では運動会や遊園会など四季折々の行事も催されました。孫文、文豪、魯迅、西園寺公望など、上海にやってきた中国、日本の政治家や芸術家との交流会も開催し、日中芸術交流の促進に多大なる尽力を果たしました。
白石六三郎と呉昌碩の交流は深く、しばしば六三郎の招きで、六三花園で宴席を開き、日本の書家に呉昌碩やその作品を紹介しました。このことは王个◇(1897〜1988)が著した「王个◇随想録(上海書画出版社)」で、
「呉昌碩先生は生前常に王一亭先生と一緒に、六三園の宴会に参加して、日本の友人と交流することが多かった。」
と紹介されています。宴席で呉昌碩が揮毫する機会も多かったようで、跋文に六三園と書かれた作品をよく見ることから確かなことでしょう。
1914年、上海書画協会が設立し、会長に呉昌碩が就任したことを祝い、六三郎は六三花園で呉昌碩の初個展を開催しましたが、この個展は中国書画の一般公開された初めての展覧会でした。その後、六三花園では日本人書家の作品展示会や、上海書画の大家や著名収集家による展覧会が行われるようになり、六三花園は書画の展示、鑑賞、交流の中心地となりました。呉昌碩が亡くなった1927年、上海の日本人書家や呉昌碩の息子・呉東邁が発起人となり、六三花園で「呉昌碩遺墨展」が開催されました。
★…「病」のなかを「可」
☆…さんずい篇+令
◇…竹冠+移