最近の号で王一亭、呉昌碩をご紹介しましたので、今月は現代中国畫の巨匠をもう一人ご紹介します。斉白石[1864年1月1日(同治2年11月22日)〜1957年9月16日]、中国の画家、湖南省湘潭生まれ。幼名は阿芝、のち璜、字は渭青、別号に老民、木匠等。正しい日本語読みは「せいはくせき」ですが、「さいはくせき」と読み間違える人が多いので注意してもらいたいと思います。
斉白石は湖南省の貧農の家に生まれ、家計の困窮と病弱のため一年に満たない期間しか学校には通えませんでした。27歳で地元の本格的な文人画家、湖沁園の弟子として花鳥画、山水画等の画法を学び、同時期に詩文も学びました。40歳頃から5回にわたり、中国各地を行脚して景観を銘記し、同時に全土の優れた伝統芸術を実見して芸術家としての視野を広げました。
1919年(57歳)、戦乱を避けて北京に移住、やがて書画に専念し、売画・売印で生計を立て始めます。その後、徐渭の奔放な溌墨、石濤や八大山人のシンプルで深淵な筆法、呉昌碩の書法などを吸収して、草花、虫、蝦などを愛情とユーモアに満ちた独自の「紅花墨葉」と呼ばれる画風を築きました。北京美術専門学校教授、中国美術家協会主席を歴任、人民藝術家の称号を与えられた。
篆刻については30日歳で独学し始め、初め漸派の丁敬、黄易の謹厳、敦厚な刻風を学び、後に『二金蝶堂印譜』を見て趙之謙を学ぶことに転換、
「印を刻する者は、天趣渾成を得、新たな
道を開かねばならず。それでいながら
古代名瀬の型を失ってはいけない。
私が見るところ、(それができた人は)
従来唯だ撫叔(母上謙の字)一人だけで
ある。」
と述べています。白石は趙之謙の印譜を精読して研鑓を重ね、北京では「潤筆表」を出し、売印する時に趙の刻技を用いましたが、やがて、独自の雄渾な刻風を確立しました。
次号では斉白石が世界的に契機となった日本の一大展覧会と、彼の作品に惚れ、斉白石の作品の一大収蔵家として知られた外交官の須磨弥吉郎にも触れたいと思います。