唐代初期、陝西省鳳翔府天興県(現・陝西省鳳翔県)の南方20里の陳倉で出土した花崗岩の碑碣10基は、その形状が鼓に似ていることから「石鼓」と名付けられました。別名「陳倉十碣」と称される石鼓の周囲には四言詩で狩猟について刻されていることから「猟碣」とも呼ばれ、当時の狩猟を通して王族の暮らしが分かる貴重な文献資料の一つともされました。
現存する中国石刻文字資料としては最古のもので、刻年は戦国時代秦中期と指摘されますが、文字統一前の秦代の具体的にどの時代に作られたかについて、襄公、文公、穆公のいずれかが有力視されています。
書体は始皇帝が文字統一するより以前の通行文体である「大篆」として歴代の書家に愛好され、韓兪、蘇軾などが石鼓に関する歌を詠み、その存在を広く世間に知らしめましたが、特に呉昌碩は石鼓文の研究と臨書を生涯かけて学書の対象としました。
現在は北京故宮博物院の銘刻館に収蔵されていますが、長年、特別展示以外に見ることは叶いませんでした。筆者は銘刻館が新たにオープンした2005年に訪中した折、肉眼で参観した感動を覚えています。
石鼓は出土当時から珍重されており、墨、筆菅、置物、デザインなど多くの意匠に使われました。余談ですが、わが国でも書道用品店の包装紙、岩波書店『漱石全集』の装丁などにも用いられました。
石鼓は出土時より破損がありましたが、幾多の戦乱を経るうちに保護と移動、不明と再発見を繰り返し、その度に破損、そして風化が繰り返されたため、故宮に展示された石鼓の刻字は不鮮明で、はっきりと確認できる資料は宋代に採られた拓本しかありませんし、乍原鼓の上半分が破壊される以前の唐拓は未だに発見されていません。1126年(靖康元年)に北宋が金に滅ぼされた「靖康の変」以前に採られた宋拓本は大変、貴重で、古くより公開され後世の刻本やレプリカのモデルになった「范氏天一閣本」は北宋時代の拓本で462字ありましたが、1860年の「内乱の際」で亡失しました。
次号では、これらより旧拓本はなんと我国にあります。三井高堅氏が蒐集し、三井聴氷閣蔵本として著名な石鼓文の旧拓善本について、ご紹介したいと思います。