漢字の祖先である「甲骨文字」は、最も古いものは商代晩期、紀元前1300年頃から紀元前1046年頃の文字として使われていました。甲骨文字は、エジプトのパピルス文字、古代バビロンの楔形文字、古代インドの文字とともに世界の四大古代文字の一つですが、筆記具のない時代に使われた甲骨文の書体は、時代により文字の大小などの変化はあります。総じて亀甲、いのしし、しか、水牛など獣骨や肩甲骨など硬い表面に鋭利な刀子で文字を彫り込んでいるため、鋭い直線を組合せた書体であるのが特徴です。
甲骨に彫り込まれた文章は、主に卜(占い)の内容とその結果であるため「卜辞」とも呼ばれます。甲骨文が世に知られる背景には所説あります。出土当初、甲骨は「龍骨」と呼ばれ、マラリアの薬として漢方薬店にあったそうです。それを見つけた青銅器の蒐集家として知られていた清朝皇帝の秘書官「翰林」の王懿栄[道光25年(1845)〜光緒26年(1900)]は「龍骨」に文字が刻されていることに気付き、店から「龍骨」を買い集め、劉鶚[咸豊7年(1857)〜宣1年(0909)]と検討したとされていますが、事実は異なるようです。
阿辻哲次氏の説によると骨董商である范維卿などが河南省で出土した甲骨を入手し、1899年(光緒25)、王懿栄に持ち込んだの甲骨文字が世に知られる第一歩のようです。しかしその翌年の1900年に起こった義和団事件で、外国軍隊が北京入りしたことを憤って王懿栄は自殺してしまいました。そこで王懿栄の甲骨コレクションを買い取った劉鶚が5,000点以上の甲骨から文字が鮮明なもの1,058片を選んで拓本を採り、1903年「甲骨文字」と名付け、その年11月に『鉄雲蔵亀』として刊行し、こうして甲骨文字は初めて世に知らしめることとなりました。
次号では、中国大陸から続けて多く出土する甲骨の研究は考古学的発掘調査として進み、明らかになっていく甲骨文字の実体についてお話ししたいと思います。