閔泳翊と呉昌碩の金石交流-2
更新日:2020年09月15日
呉昌碩の有名な刻印の多くは閔泳翊の用印であることが判明しており、二玄社刊「中国篆刻叢刊」や黄嘗銘編「篆刻年歷(真微書屋出版社)」 にもその一部が掲載されています。
1884年(高宗21)10月8日に起こった「甲申政変」で閔泳翊の父・閔台鎬は洪英植、金玉均、朴泳 孝ら急進開化派(独立党)人士によって殺され、昌徳宮に難を逃れていた別技軍教練所長であった閔泳翊は洪英植を総弁とする郵政局落成式祝賀宴に参加していましたが、同様に刺されて重傷を受けました。
幸い米国人宣教師アレン( Allen,H.N. )の応急手当を受け、その後、外科的手術ののち3か月間の治療を受け、かろうじて一命を取り留めました。回復後、閔泳翊は呉昌碩に「甲申十月園丁再生」を刻してもらい、この大きな災難不死を心に刻みました。さらに1895年10月の「乙未事変」で、三浦梧楼公使らの陰謀により、日本人壮士によって閔妃(明成皇后)も殺害されました。
閔泳翊はこれより先、政治的脅威を感じ、翌年、内帑金を持って香港や上海などの地を転々と逃避してから帰国しました。1905年乙巳条約締結で親日政権が樹立されると再び上海に亡命して千尋竹齋に住みながら、書画などの売畫生活を過ごしました。しかし、1914年7月7日、閔泳は長年の飲酒の影響から肝臓病を悪化し上海で死去しました。享年54歳。
呉昌碩が讃える《挽蘭丐》七言詩に「天涯回首談性情 樵青滌器烹中泠 而今宛若折足鐺 安得專氣致柔養長生 君隔蓬萊弱水 望我顏色紅如嬰」があります。感情が真摯で読んだものに大きな影響を与えるという意です。閔泳翊が逝去した4年後の1918年、呉昌碩は未だ亡くした親友を追懐し「蘭涯」印を刻しました。この印こそは二人の友情の証しであるとともに最後の贈り物となりました。