中国の「二大思想書」といえば孔子(紀元前551〜紀元前479)の「論語」と道家の始祖「老子」です。老子は人名ではなく戦国時代(紀元前403〜紀元前221)に書かれたとされる書物の名前です。作者については明確ではありませんが、中国歴史書で司馬遷の『史記』によると、老子の作者は楚の苦県(現・江南省鹿邑県)曲仁里の出身で、李耳★(りじたん)、または伯陽という周の書庫(図書館)に勤める役人だったとされています。ほかに李耳、老★、太上老君、無上大道君とも呼ばれました。
老子は正確には『老子道徳経』で、上下二篇81章に渡って教えが説かれています。そもそも老子という名は尊称と考えられており、「老」は立派、または古いことを意味し、「子」は達人に通じるとされます。しかしながら老子の苗字が「李」であるならば、なぜ孔子や孟子と同様、「李子」と呼ばれないのかという点に大いなる疑問が残っています。ご存知の方も多いと思いますが、「上善水如」、「和光同塵」、「天網恢恢」、「大器晩成」などは老子の作者が残した言葉です。
この二つの思想書には大きな違いがあります。「論語」が、現実社会での人間が生きていくうえで必要な道徳、技能向上、出処進退などを説いた人間社会学の教えであるのに対し、「老子」は、人間の心のあり様だけでなく、天地自然、万物の根源など自然科学的視点から教えを説いている特徴が挙げられます。日本では昔から「上り坂の儒家、下り坂の道家」と言われ、論語は人間関係で陥りやすい状況を詳細に説いており、その人が上り坂の時は論語を読んで、自分や自分の人生を肯定しながら改善すればよいとされます。しかし、その人が下り坂の時は老子を読んで、現状を否定し、根本的な革新を図る必要があるとされています。
次号では現代社会にも生かされている「老子」の話について触れたいと思いますが、理想と現実とのギャップも否めませんタイトルにある「隔手的金子 不如在手的銅」の本質について触れたいと思います。
★…耳篇+再の一画目をトル