中国三大悪女と言えば漢代初代皇帝劉邦の妻・呂后(紀元前241年〜紀元前180年8月18日)と唐代高宗の妻・則天武后[武徳7年1月23日(624年2月17日)〜神龍元年11月26日(705年12月16日)]とともに西太后[道光15年10月10日(1835年11月29日)〜光緒34年10月22日(1908年11月15日)]が挙げられます。
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説ありますが、近年の学界で北京出生説が有力とされています。西太后は幼名「葉赫那拉蘭児」、父親・恵徴は清朝の無名な中堅官僚でしたが、西太后が生きた時代は、列強が侵略して国土を蝕み、内乱が勃発する不安定で激動の時代でした。
1852年、17歳のときに3年毎に紫禁城で開催される后妃選定面接試験「選秀女」に合格し、翌年5月9日(6月26日)、18歳で第九代皇帝咸豊帝の後宮に入り「蘭貴人」となりました。1856年、咸豊帝の唯一の長命長子・愛新覚羅載淳を出産し、その功績で懿貴妃に昇進しました。
咸豊帝の側妃(側室)で、同治帝の母であることと、30歳で逝去した夫・咸豊帝の死後、6歳で即位した実子・同治帝と妹の皇子・光緒帝の二代にわたり権力を手に入れましたが、咸豊帝、同治帝が短命だったことが、西太后の権力を掌握する土壌となったことは否めません。つまり、清王朝末期の皇帝が揃いも揃って短命で、政治的センスがなかったということが、彼女の歴史上の絶対的地位を築く要因となったのです。
そして1881年、突然、ともに政治を動かしていた東太后が四五歳の若さで逝去、また1884年、清仏戦争敗北の責任を取り恭親王が失脚したことで、西太后は絶対的地位を確立し、後人に悪逆非道、冷酷無比と揶揄された政略を企ててクーデターを繰り返しました。
次号では西太后による47年にも及ぶ垂簾聴政(女性による摂政政治)をにも末路が訪れる様についてお話ししたいと思います。