しかし1890年代後半より列強諸国の中国侵略が激化、清朝と中国危機を救うため立憲制政体を説く康有為(1858〜1927)の主張は光緒帝を動かし、康有為、梁啓超(1873〜1929)らを登用して政治改革「戊戌の変法」を断行させますが、西太后のもとに保守派が結束し、同年9月、クーデターをおこして光緒帝を幽閉し政権を奪取、康有為、梁啓超らは失脚して日本に亡命し、わずか3ヶ月余りで「戊戌の政変」は挫折しました。
以後、西太后のもとで政権を握り、朝廷には排外的な傾向が強まりますが、1889年に光緒帝の結婚に伴い西太后は引退し頤和園に移りました。ここでは連日連夜、200種類に及ぶ満漢全席を作らせ、賑やかな宴会を行いました。頤和園を改築し「近代一の美食の追求」という桁外れな贅沢三昧のために海軍整備費を流用した影響で海軍軍事力は壊滅的状態となりました。
さらに日清戦争の敗北、諸外国の侵略へとつながり、清王朝を滅亡へと導いたのです。1908年11月14日、戊戌の政変で紫禁城瀛台に幽閉されたままの光緒帝が崩御、そして翌15日、西太后が相次いで崩御しました。死ぬ間際、西太后は妹が産んだ宣統帝・愛新覚羅溥儀(当時2歳)を次期皇帝に指名しました。
権力の限りを尽くした西太后も寄る年波には勝てず、遺言に「今後は女性に権力を持たせてはならない」と記しましたが、自らの人生を回顧する言葉なのか、自分以上の権力を持つ女性出現を恐れたものか今となっては不明です。
生きた女性を井戸に投げ込み殺害したり、甥をヒ素で毒殺したり、ライバルの手足を切断したり、それらは後世になり強烈に脚色された悪いイメージ、つまり逸話であり事実ではないと判明しましたが、男尊女卑の時代に47年にも及ぶ垂簾聴政(女性による摂政政治)を行った女傑だからこそ語り継がれたのでしょう。