揚州八怪-1

更新日:2022年06月01日
汪士慎「春風香国図」故宮博物院蔵 李鱓「牡丹図」上海博物館蔵 黄慎荷雁図」故宮博物院蔵 金農「花卉図」遼寧省博物館蔵 高翔「渓山游艇図」故宮博物院蔵 鄭燮「蘭竹石図」故宮博物院蔵 李方膺「古松図」故宮博物院蔵 羅聘「桂枝図」故宮博物院蔵

 清朝乾隆期18世紀頃に現れた揚州を代表する一群の文人画家は後世の評論家によって「揚州八怪」名づけられました。汪士慎・李★・金農・黄慎・高翔・鄭燮・李方膺・羅聘の八人のほかに、辺寿民・陳撰・華嵒・高鳳翰・閔貞らを加える説もがあり、必ずしも八怪は八人ではありません。人によって選ぶ数に多少違いがあったため、揚州八怪は総じて15人います。
 当時の江蘇省揚州は水運の要所として繁栄発達した街で、康熙(1662〜1732)から乾隆(1756〜1795)にかけて清朝最大の産業都市となりました。この地に中国の塩商と呼ばれ塩商人や織物商人が発展とともに巨萬の富を蓄え、豪華な楼閣庭園を築きました。財政豊かな彼ら商人たちは積極的に文化、芸術のパトロン的役割を担うとともに、その装飾品として書画を多く求めました。これによって全国各地から文人墨客が集結し、揚州の街は芸術活動の拠点となり、絢爛たる学芸都市となり、そこに花開いたのが揚州八怪だったのです。
 杜牧詩「遺懐」で詠われた、
  十年一覺揚州夢 十年一たび覚む揚州の夢
  贏得樓薄倖名 贏ち得たり樓薄倖の名
とあるように、その栄華は長らく人々の心に刻まれました。一派はとりわけ花鳥画に優れ、梅・蘭・竹・菊の四君子を好んで画きました。また彼らはみな教養深く、その画風は伝統に囚われない自由奔放で極めて個性的で、沈滞した中国画壇を忽ち席捲し新風を吹き込みました。後に趙之謙、任伯年、呉昌碩などの海上派や斉白石らに大きな影響を与えました。
 次号では乾隆時代に天下を二分した「婁東派」と「虞山派」とは一線を画した揚州八怪が商業や経済の発展によって大衆にまで高い評価を得るようになった点についてお話ししたいと思います。


★…魚偏の彈

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