揚州八怪-2

更新日:2022年06月15日

 乾隆時代の朝廷には「婁東派」があり、在野の「虞山派」と天下を二分していていましたが、婁東派は次第に活気がなくなるとともに画風も俗っぽくなり、さらに傑出した人材もなく衰退の一途を辿りました。そんな状況で出現した揚州八怪は北京、蘇州、常熟などの朝廷派とは一線を画し、朝廷派の人が少なかった揚州に於いて花開いたといえます。
 しかも揚子江の便を生かし、経済、交通の要所で人材が集まり易い地方であったと考えられます。そして北方の官僚気風や、江南の地主気風などは、揚州には影響が少なく、新興地方都市の商業や経済の発展は、一般市民にまで影響を与え、これらが揚州八怪の書画家に合う芸術的土壌が生まれるようになったと言えるでしょう。
 光緒年間に出版された汪鋆の『揚州画苑録』によると、揚州八怪とは、
@政治上に関心を持たない知識人、仕官に甘んじない、才能がありながら昇進できない下級官僚、左遷または免職された者
A終生画院に入らず宮廷書画家にもならなかった
Bたとえ売画生活しても画院の職業画家でも民間職業的画家でもなく、創作上でも厳しい制限を受けず、一定の創作自由を保持した
C高尚な人格で、権力に迎合せず利益を目的としなかった
D文芸文化の修養が豊富で、詩、書、画の三絶ともに秀れている
の五条件をみな具備し、評価されるにふさわしい人物とされました。
 清朝19世紀になり、銀の海外流出とともに経済は疲弊し、塩商は大打撃を受けることで揚州の繁栄も陰りを見せます。さらにアヘン戦争後に上海が開港すると経済、文化の中心は上海と移りましたが、特に李★に私淑した趙之謙などを見ると、揚州八怪の伝統創意が連なり、後世の作品に息づいていると言えるでしょう。

★…彈(「弓」を魚偏に)

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