正字と異体字-2

更新日:2023年08月15日
魯迅と「孔乙己」
 さて、ここで中国から伝わったはずの漢字について、少々、紛らわしい漢字ついてお話ししたいと思います。例えば「天」字について、筆者は小学校の頃に下線を短くと教わりました。実は中国の漢字(簡体字)は逆で、下線が長いのです。
 前述した日本の漢字字体は、清代の康煕字典のデザインをおおむね採用していますが、康煕字典は印刷のための印刷用デザインです。天字も康煕字典では下線が短いのですが、古くから手書きでは下線を長く書いてきました。書法的には下線を長く書く方が、伸びやかな運筆に見えるからでしょう。
 つまり厳密にはどちらが長くても問題ないのでしょう。ただ、現代社会では教育的配慮から一つの正解を決めようとします。中国と日本で異なる字体を正解としたのです。似たような漢字に「吉」があります。
 こちらは中国も日本も下線が短いのですが、身近な例に牛丼の吉野家の「吉」字は下線が長い「★(土の下に口)」字が採用されています。これもどちらが長くても同字である礼として挙げられます。「写(写)」字は、日本では最後の横線が突き抜けますが、中国の字は突き抜けません。逆に「花(花)」字は、日本の漢字ではヒの横線が突き抜けませんが、中国の漢字は突き抜けます。実は前述の康煕字典では突き抜けており、日本の旧字体でも突き抜けていました。一般論として「匕」字が康煕字典では突き抜けていないので、「化」、「花」などと同様に統一したのだと思われます。
 異体字と言えば、魯迅(1881〜1936)が1919年に雑誌『新青年』に発表した短編小説「孔乙己」が挙げられます。孔乙己はたくさんの書物を読み、かなりの知識はあるが科挙に通らず、仕事もない。仕事を見つけても酒癖の悪さからそれも無くす。乞食同然に落ちぶれた孔乙己は、語り手の少年に四つある「回」の書き方を知っているかと問います。少年が漢字辞典で「回」字を引いてみると、口(くにがまえ)の「囘」と「★」と「★(口のなかに目)」という字が書かれているのに気づいたという内容です。異体字を知っていることが「役に立たない知識」の象徴として書かれています。
 発表当時の中国で社会問題となっていた、科挙制度の影響で古典だけは読めるが実生活では何の役にも立たない読書人の悲哀を皮肉っており、魯迅の自国と自国民に対する「愚弱」と「精神構造の改造の必要性」を訴えています。
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