楊守敬と水野疎梅-1

更新日:2023年12月01日
楊守敬の手書き序文のある『学書邇言』
 写真は大正元年法書會出版部が発行した学書指南書『学書邇言(がくしょじげん)』です。著者は楊守敬で、本書には楊守敬の手書き序文があるものです。筆者はたまたま本書を見る機会を得、日本の近代書道史の幕明けに多大なる影響を与えたとされる楊守敬と当時の日中交流、そしてその橋渡しとなった水野疎梅については令和5年1月刊行「書法漢學研究」32号に詳述しました。
  楊守敬(1840〜1915)、湖北省
  宣都県の人。字は惺吾、鄰蘇
  (りんそ)と号す。24歳で郷試
  に合格するが、その後48歳まで
  に7度に亘って会試を受験するも
  全て不合格となり科挙を断念。
  自らの著述『鄰蘇老人年譜』の
  なかで著述に専念すると表明し、
  そこから晩年に至るまで金石学、
  書学など各方面の学問の見識を
  深めた。地理学を修め、書を好
  んで金石を研究した。著書に
  『楷法遡源』などがある。
 楊守敬は同治7年(1868年)進士、翰林院に入った初代駐日公使の何如璋(1838〜1891)の招聘により、明治13年(1880)3月に随随員として来日したのですが、その時に日本へ持ち込んだ四尺四方の多数の皮鞄で漢魏六朝の碑版と各種法帖を持ち込みました。明治新政府に関わった書家が新時代にふさわしい書風を求めていた時期と重なり、日本を代表する書家は大きな衝撃を受けました。
 そこで7月17日、日下部鳴鶴(1838〜1922)、巌谷一六(1834〜1905)、松田雪柯(1819〜1881)らは楊守敬に接見を願い、楊守敬から北碑や北派の書法を教わりました。鳴鶴、一六、雪柯らはその影響を大いに受け、指導者として日本の書道界に六朝書道を学ぶ必要性を鼓吹しました。
 楊守敬は、実技として廻腕法によって鄭羲下碑など北碑を学ぶことを推奨したため、北朝の書への関心が大いに高まりました。鳴鶴らは、楷書では鄭道昭、行書では蘭亭叙、草書では書譜、北碑などを基本とするよう推奨し、これにより初めて古典による学書方法論が成立したと言われています。
 次号では楊守敬の直弟子になるため訪中した水野疎梅との交流、そして彼の栄光と挫折についても触れてみたいと思います。
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