問鼎之軽量-2(鼎の軽重を問う)
更新日:2024年02月15日
洛水河畔に軍兵を展開し王位をうかがった際、周室に伝わる宝器である九鼎の大小・軽重を問うたところ、周の定王の使者・王孫満は、
「在徳不在鼎。」
(徳に在りて鼎に在らず。)
続いて、
「徳之休明、雖小重也。其姦回
昏乱、雖大軽也。」
(徳の休明なるや、小といえど
も重なり。それ姦回昏乱せば、
大なりといえども軽なり。)
と返答し、楚王の野望を一蹴しました。
この故事から、「面前の相手の権威や能力、力量、価値を公然と疑うこと」を「鼎の軽重を問う」、また略して「問鼎」と言うようになりました。統治者の面目を軽んじ、これを滅ぼして天下を取ろうとすること、転じて、人の実力を疑ってその地位から追い落とそうとすることを指します。
さて、最終的に周を滅した秦は、持ち帰ろうとした九鼎を混乱のさなか泗水の底に沈め紛失したとされています。秦の始皇帝は、仕方なく鼎を権力の象徴から外し、新たに玉璽を刻し、これを天子の象徴にしました。そして玉璽を造る鉄が普及するようになり、やがて磁器が誕生すると鼎の時代も終わりを告げました。
玉璽についてはまたまた面白いエピソードがありますので次号でご紹介したいと思います。