先月号で天子の象徴として周37代にわたって大切に保持された九鼎のお話をしました。しかし持ち帰ろうとした九鼎を泗水の底に沈め紛失してしまったため、秦の始皇帝は権力の象徴を鼎から新たに「玉璽」としました。
この玉璽は秦の始皇帝が「霊鳥の巣から見つけた宝玉」で作らせたとされる印章のことです。その宝玉を、始皇帝は李斯に命じて形を整えて刻し、皇帝専用の璽にしたとされますが、印文については、韋昭『呉書』による「受命于天既壽永昌(天より命を受け、寿としながくしてまた永昌ならん)」という説と、『漢官儀』(後漢末)による「受命于天既壽且康(天より命を受け、寿としながくして且かつは康やすからん)」とする説があります。
この玉璽は秦始皇帝以降、皇帝印を「宝璽」と称し、伝国璽、天子六璽、受命璽を合わせた八方宝璽として漢、魏、両晋、南北朝及び隋時期まで数量、材質、規格、文字、紐式を変えず伝わりました。「天子の六璽」とは、「皇帝之璽」、「皇帝行璽」、「皇帝信璽」、「天子之璽」、「天子行璽」、「天子信璽」と刻された六つの璽(皇帝の印章)であり、封をする命令書の種類に応じて使い分けられていました。
秦王・子嬰の滅亡後は前漢・高祖(劉邦)の手に渡り、以降代々の皇帝に受け継がれたことから「伝国璽」と呼ばれるようになりました。伝国璽は一辺が3寸(約9センチ)の方寸で、形状は上部が丸く、そこに綬を結ぶ五匹の龍が彫られていますが、うち一匹の龍の角は欠けていました。角が欠けている理由は、王莽が前漢の帝位を簒奪し新に移った際、従兄弟の王舜を使者に立て、伝国璽を保管していた伯母の王政君(孝元太皇太后)に使者を送って伝国璽を引き渡すように要求します。
『後漢書』には、献帝の皇后・曹節は「曹丕の使者に政権交代へのささやかな抵抗として伝国璽を投げつけた」と記されています。この時の衝撃で龍の角が欠けてしまったとされています。その後、欠けた部分は金で補修が施ほどこされ、この補修の跡こそが本物の伝国璽の証しであるとされました。『漢書元后伝』によるこの逸話には似たような逸話が『後漢書曹皇后紀』にも記載されているのですが定かではありません。
次号ではその伝国璽はどのような運命を辿るのか、オークションの話題にも触れてみたいと思います。