稽古-2

更新日:2016年02月15日
教室の稽古風景
 古代中国において、民族は尚古主義が優先され、古の帝王を聖人視し、後代の施政者はその政治を理想と考えました。したがって昔の聖王の統治をいいお手本として考え習い、その通りに実践できる人物こそ、その時代の聖人と呼ぶのでした。すなわち昔のことを考えるという「稽古」は、古の正しい道を学ぶことを意味したのです。
 古を学ぶことは古い書物を学ぶことと同義なので、「稽古」は学問や学習をする意として広く用いられるようになりました。『後漢書』巻三七桓栄伝には次の一文があります。
  栄大会諸生 陳其車馬印綬 曰
  今日所蒙 稽古之力也 可不勉哉
  栄 諸生を大会し、其の車馬印綬を陳べて曰く、
  今日の蒙むる所、稽古の力なり。勉めざるべけんや、   
 光武帝に認められ太子太傅にまで登り詰めた後の太常桓栄は、学生たちを集め皇帝から賜った印綬車馬を見せ、
  「今日の地位はすべて稽古によるものだ。諸君も励みなさい」
と言いました。これは貧しかった若かりし桓栄が、「稽古」、すなわち学問に勉めたおかげで今日があるということを説いたものです。やがて、日本でも「稽古」は芸能、武術、遊芸などを習うこと、練習することを言うようになりました。
 お稽古について、学ぶ側としては実用的か、趣味的か、本格的か、学ぶ側の姿勢によって成長する速度には大きな違いが出ます。自己啓発のためには「信頼出来る人」や「尊敬出来る人」、そして「実績を出している人」の言葉を素直に聞く姿勢を持ちたいものです。
 
←前へ 目次 次へ→