「毛公鼎」陳介棋偽造説-2
更新日:2016年04月15日
陳介疎が隠遁した後、毛公鼎の原器は目撃されることなく、拓本のみが稀靭本として極めて高値で取り引きされるようになりました。高価な拓本だけが伝世する妬みが増幅されたのも、陳介棋偽造説を生んだと言われています。しかし、根が商人である蘇六、弟の蘇七(兆年)、そして刻字の名手・鳳眼の手とは言っても、稚拙な書体、刻銘と鋳銘による筆致の違いなどは、経験を積んだ眼にかかれば一目で見分けがつくでしょう。
さらに鼎器内側に鋳込まれた銘文に疑いの余地ない改変を加えることなど困難で、何よりも真偽鑑定や拓本技法においても清朝金石学者の第一人者であった陳介棋が毛公鼎原拓本に付した践文を見れば、今日の考古学的知見を以てしても、毛公鼎が疑いようのない器であることを証明する根拠として間違いないと言えるでしょう。 陳介棋は光緒10年(1884年)、72歳の生涯を終えましたが、その希世なる蒐集は後に多くの権勢家垂涎の的となり、ほぼ散逸してしまいました。毛公鼎も例外なく直隷総督の満州人大官・端方の手になりました。しかしその後もこの鼎は中国近代の歴史とともに数奇な道筋を辿ります。日中戦争の戦火を避けて上海、香港を避難し、終戦後に上海草枕局で発見されたときにはゴミ箱として使われていたそうです。
このように幾度も持ち主を替えて秘蔵され、中央博物館に寄贈され、故宮文物南遷とともに台湾に渡り、ようやく現在は台北故宮博物院に手厚く安置され、安住の地を得ることになったのです。