漢字文化圏ではもちろん、古今東西、王羲之「蘭亭叙」と言えば、その来歴や太宗が手に入れた伝説などと合わせて、数多の名品名跡のなかでも抜きんでた輝きとなっています。通俗的書道史では、王羲之亡き後、隋代の七世子孫の書僧・智永が所蔵し、その死後は弟子の弁才の所蔵となり、やがて太宗皇帝の手に移ったと言われています。
王羲之後裔の智永が蘭亭叙を所蔵していたのはいかにもありそうな話ですが、唐の何延之『蘭亭記』によると、唐の太宗皇帝が王羲之書の殆どを集めたものの蘭亭序だけは手に入らず、遂には名臣である趙模、韓道政、馮承素、緒葛貞らに命じて弁才から蘭亭叙を騙し取り、自らの陵墓・昭陵に莫大な蒐集品を副葬させた逸話はあまりにも有名です。
太宗によって王羲之の真筆が葬られたため、現在、王羲之の書は後世の書家による臨書か雙鉤填墨本、またそれらの写ししか残っていません。唐代にあったと言われる蘭亭叙も、王羲之書の真贋鑑定を行った唐の三大家である歐陽詢、虞世南、チョ遂良ですが、彼らも「蘭亭叙」を臨書しました。
『晋右軍王羲之書目』において行書の第一番に「永和九年 二八行 蘭亭序」と掲載したチョ遂良は集字聖教叙の選集も行っています。蘭亭叙と集字聖教叙の類似性、その玉石混合ぶりに気づかないはずがなく、恐らく宮廷書家達ではなく、太宗の指示によって「蘭亭叙」は捏造されたとみるのが自然と思われます。
王羲之の真跡が実在せず、現存する雙鉤填墨本ですら王羲之書の真実を写している証拠はありません。しかしながら、王羲之「蘭亭叙」が捏造されたものであるとしても、王羲之書の真骨頂は、書法史における「隸書の早書きから流麗な連綿草書に変化」してゆく書風に十二分に残されています。
王羲之書法が後世に与えた多大な影響は疑いようがなく、その元となった尺牘も、智永や周辺の相当な能書家による写しであり、手本となるに十分なものであったと推察されます。
次号ではタイトルにありますように、忘れた頃に繰り返される「蘭亭偽作説」について、お話したいと思います。