代悲白頭翁-1
更新日:2017年01月01日
新年、おめでとうございます。丁酉(ひのととり)あけました。今年も皆様にとって実りある一年になりますよう、ご祈念申し上げます。
中国唐代(618年〜690年・705年〜907年)には張旭、孟浩然、王維、李白、杜甫など多くの優れた詩人が排出されました。彼らは盛唐に活躍した詩人ですが、初唐に見過ごすことの出来ない詩人がいます。劉希夷[651年(永徽2年)679年(調露元年)]で、姓が劉、名が希夷、字が庭芝(廷芝)で「劉希夷庭芝」という説と、姓が劉、名が庭芝、字が希夷で「劉庭芝希夷」という二つの説があります。生まれも汝州(河南省汝州市)か潁川(河南省許昌市)の二説あり定かではありません。
また、彼の名に「夷(えびす、えみし)」が使われていますが、「夷」は異民族の総称で、侮蔑用語、差別用語です。自国を天下の中心と考えた中華思想では、四方に住む”野蛮”な民族を「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼びました。その「夷」を自らの名前に使い、さらに「希」字を合せて「希夷=薄いえびす」という名前に適さない字にしたのは、余程、自国に嫌気がさしたのか、他国に憧憬を感じたのか、その真実は筆者には理解出来ません。
当時の科挙の試験科目「進士」科は、儒学の知識と時務策に加え、詩賦まで追加されることから進士科は50歳で及第でも若いと言われるほど超難関でしたが、僅か25歳で及第したにも関わらず、任官せず巴蜀、江南など各地を遊覧したそうです。酒と音楽を好む美男子で、琵琶の名手であったと言われています。
次号では、表題にある劉希夷の代表作「代悲白頭翁」の紹介とその背景、そして彼の悲劇についてもお話ししたいと思います。