程君房と方于魯-1

更新日:2015年02月02日
程君房「崑崙天柱」墨(左)と方于魯「仇池石」墨(ともに台北故宮博物院蔵)

程君房「崑崙天柱」墨(左)と方于魯「仇池石」墨(ともに台北故宮博物院蔵)

 墨の足跡を辿ってみると、甲骨文や殷墟などで陶磁器に墨書されたものが出土していることから、殷代には既に墨らしきものがあったと考えられ、その相方に当たる硯は西周時代(前1122〜前770)の墓から長方石板調色器が出土していますから、かなりの歴史のある文房具です。それまでは、石板(硯台)の上に顔料をおき、研磨具で磨り潰していましたが、漢代前期(前202〜8)以降になると原料を松煙、石墨(せきぼく)、膠(にかわ)のほかに、香料なども使った固形墨が作られたようです。
 明代、とくに萬暦時代(1573〜1619)は美術工芸が著しく発達し、製墨史上の黄金時代とも言われ、後世に残る油煙墨の名品が作りだされました。その明代を代表する墨匠として、程君房、方于魯、羅小華、汪中山などがいます。清代には曹素功、汪近聖、汪節庵、胡開文は清代を代表する製墨家として「四大家」と称されています。彼ら名を残した墨匠がほんのわずかな理由として、墨や筆の職人は芸術家という扱いではなかったせいか、その出生など不明な点が多いようです。しかし、後世になって高い評価を受け、また研究者によって、程君房と方于魯についてはいろいろと明らかになっています。特に京都大学教授であった故・中田勇次郎氏によって明らかにした功績は大きいです。
 方于魯ははじめ程君房の下で製墨を学び、のちに独立しました。しかし、方于魯が生活に困窮したため、程君房は方于魯を援助し、しかも秘伝の製墨法を伝授したとも言われています。
 次号では方于魯の裏切りについてお話したいと思います。

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