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出版企画書籍販売古美術・骨董ガラスアート篆刻 ◆書道雑記帖◆



文・写真 橋本吉文

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No.99 蔵六居士結金石縁

        
                 

             

    


 松丸東魚は「私の篆刻の先生は印譜」と語り、多くの印譜を蒐集した。それらの印譜は平成3年8月、茨城県古河市の古河市立篆刻美術館に譲渡され、高山節也氏により『松丸東魚蒐集印譜解題』が刊行された。同書は印譜を書誌学的に整理していることと、初めて、日本刊行印譜をまとめたことが注目される。
 図版の印譜は、『蔵六居士結金石縁』であるが、同書を見ると、「濱村裕編、明治三十五年跋刊本ツ印 一帙二冊」と解説しているうちの第二冊であることがわかり、「本書は、四世濱村蔵六が滯C中交遊した知名人士の刻印を集成したものである」と解説し、高?、小長蘆館主人等の人物について簡単にふれている。
 なお、第二冊の収録印は「六十一顆ツ印」とあるが、図版印譜を数えると、「六十三顆」となる。ただ、高山氏が、「ただその場合本來一顆であるものを、複數に數える恐れがある。たとえば兩面印や六面印、あるいは子母印のようなものは、印面は二面・六面などになるが、これは本來一顆である」と指摘するところを勘案すると、「ゲタ印」と思われる印が二顆あり、六十三から二を引き「六十一顆」となる。因みに、『同版』のものに、「明治三十六年跋據三十五年跋刊本修補ツ印 一帙二冊」があることを、同書にて知る。




No.98 緑衣硯


        
             

             

    


 提示したものは鵞鳥形の硯で墨堂以外が緑色に覆われている。同様の硯を幾つかの図録から紹介する。『亀阜斎蔵硯録』に、「?宣和鵞硯」と題した硯があり、同書の解説には、端渓石にて形成された物で、外側は緑衣に覆われ、旧銅錆、あるいは緑松石の粉を膠で貼りつけたものといい、裏面には双足と、「宣和」陽文印が彫られている。『静妙軒蔵研』には、「刻荷葉形緑衣硯」があり、解説に、赭紫色の端渓石で瓜形、外側に青緑斑紋があり古青銅器の色に似る。古い銅錆及び緑松石の粉を膠で作られたといわれており、北京で多く見るもので紫禁城宮中の営造局の製造したものに似るという。
 硯裏には陰文「米?蔵研」、陽文「養心殿蔵」の印が彫られている。また、1979年、西武百貨店池袋店にて、「中華人民共和国建国三十周年記念 中国栄宝斎展覧会」が開催されたときの図録に、「紫古端渓硯 緑衣鵞硯」があり、墨堂以外緑衣で、硯裏に陽文「養心殿蔵」印が彫られている。
 清代、宮廷使用器物は造?処で作られていた。康熙時代に始まり、最初は養心殿に設置され、養心殿造?処と称され、のち、慈寧宮に移り、内務府造?処に隷属し、皇帝によって直接指揮された。造?処の下には作坊が設置され、工匠は全国から選抜されていた。
 提示硯は造?処の下にある作坊にて作られたものと断定できないが、硯裏に「養心殿蔵」印がある。なお、中央には「山陰張湘」の陰刻がある。




No.97 書丹・王基残碑


        
          

             

    


 書丹とは、丹朱の顔料を用いて直接石に書くことである。文献における書丹の初出は、『後漢書』巻六〇下、蔡?伝にみえる。蔡?は経書の文字に誤謬が多いことにより、堂谿典等と奏して六経の文字を正すことを求めた。そののちについて、「霊帝、之を許す、?、乃ち自ら碑に書丹し、工をして鐫刻せしめ、太学の門外に立つ」という。
 銭存訓(『中国古代書籍史』)は、「古代には朱を書写に用いることも多く、とくに重要な公文書は朱で書いたようである。『大戴礼記』(漢代前期に成立)の武王践祚篇によれば、周の武王(BC12世紀頃)が即位の際、古えの賢王の政治について尋ねたとき、呂尚が、『丹書の中にあり』と答えた。
 また、『越絶書』には、越王勾践が丹書を国宝として所蔵していたと記されている」と述べる。朱書によるものは甲骨文字、盟書、漢代の瓶書等に見られる。重要な文書を永続させるときに朱で書かれたと考えると、石碑制作における書丹は、文章の永続性を保たすものであり、彫られて消える文字ではあるが、刻字の奧に深い思いが込められていると考えられる。風雨による物理的作用に耐えられるように彫られるのであるが、書丹の意義と位置づけは深く重いものである。
 図版には王基残碑(魏・景元2年<261>)を取り上げた。乾隆初年、河南洛陽安家溝村より出土したとき、上半に未刻の朱書があったと伝えられる。



No.96 印材の名称


  
          

             

    


 石印材に関心を持つ人は多いが、その名称は混乱している。時代により認識が異なるために起きたことである。
 清代初期の高兆(『観石録』)、毛奇齢(『後観石録』)は石の色と、色の形容表現が名称に用いられていた。清代中期、陳克恕(『篆刻鍼度』)は、石を山地別に紹介している。石印材の需要が高まり、多くの地にて石印材の採石がなされたことを物語る。民国初期になると、張俊助(『寿山石巧』)は、石印材を細分類し、山地別のみならず、坑洞別に名称を付けている。
 その後、日本において、山内秀夫(『石印材』)、小林徳太郎(『図説石印材』)が、採石地別に整理し、カラー図版で石印材の名称が紹介されるに及んで、石印材の名称に対して関心が高まった。現代では、陳石の『寿山石図鑑』、童辰翊の『中国印石図譜』などにより中国側の名称が確認できるようになった。
 宇野雪村(「迷石寄語」『石印材』)は、『後観石録』で晶玉としたものが『寿山石巧』では白水晶であり、現代では魚脳凍・水晶凍であるという。
 図版では左に魚脳凍、右に水晶凍をおいた。



No.95 快雪堂法書(翻刻)
          

             

    


 快雪堂法書は?州で拓されたことにより「?拓」と称され、馮銓の死後、原石は子孫によって保存された。その後について、容庚(『叢帖目』)は『甘泉郷人稿』の彭元瑞の跋を紹介し、原石は地方長官をしていた福建省の黄可潤が購入し、その後、楊撲園(名は景素)が購入して乾隆帝に献上したという。黄可潤が拓したものは「建拓」、乾隆帝が「快雪堂記」を巻頭に刻入して拓したものを「内府拓」あるいは「京拓」という。
原石は乾隆44年(1779)、北京の北海公園北岸に快雪堂を建てて保存された。この建物は1923年に松坡図書館と改名され、現在、快雪堂書法博物館となっている。
 以上のように、原石の流転の中、拓本が採られていることにより快雪堂法書を見る機会は多いが、どの時点で拓されたものであるか注意が必要である。
翻刻も多く、蘇州本、楊州本が知られているが、その他に南京、上海、四川のものがある。翻刻と雖も刻、拓調は素晴らしい。翻刻に関しては、王壮弘の『帖学挙要』に詳しい。蘇州本の場合、「楽毅論」末七行の「弱」字において、原石によるものは左下の点二点が、石花一点と合わせて三点状に見えるが、四点状に見えるという。
図版には蘇州本を掲げた。

?…さんずい編に「逐のしんにょうを取る



No.94 武元登々庵
     

             

    


 明和4年(1767)2月15日生まれ、文化15年(1818)2月24日没す。墓は、京都誠心院。備前の人で名は正質(まさただ)、字は景文、通称周平、号は登々庵。幼少の時から学問を好み、詩をよくした。家に逗留した長尾蘭洲に学び、のち、閑谷黌に入る。
 その後、京都に出て柴野栗山の門に学ぶ。また、中井厚沢に蘭学を学んだ。交友には頼山陽、菅茶山、田能村竹田、浦上春琴、古賀穀堂などがいる。
 故米田彌太郎(『近世日本書道史論巧』)は、登々庵の書学を具体的に示すものとして幾つかの資料を提示している。『用筆十二画賛』では十二画に分けて賛を示していることを紹介し、『古詩韻範』において、「ともに十二に分かって説いているところ、すでに述べたように拠を同じうするものがある。これは公にしたものではなく門人に示したものだが、登々庵が若くして、書の技術と精神と相一致するものとし、それの根底となるものが法であることを説いているのである。
 法というものを大切にし、書法の要訣基本をしっかりと把握し、身に付けさせようとしたものである。享和二年(1802)は、彼の三十六歳のときである」という。 図版の扇面は伸びやかに竹を描いている。





No.93 亀形陶硯・その2
    

             

    


 唐時代には亀形陶硯が好まれたらしく見る機会は多い。長く伸びた頸が真っ直ぐ、あるいは左右に曲がるものが一般的で、背に墨堂をもつ。墨堂には池をもつものとないものがあるが、池の硯首部分に七曲の形状をもつものがある。『静妙軒蔵研』中におさめられているものがそれである。
 この形状は他には見ず、非常に珍しいものである。4本の足が力強く踏ん張り、頸をもたげている。
 静妙軒蔵硯の硯は西冷印社2007年春季芸術品拍売会にて世にでた。蔵硯の全てではないようであるが、素晴らしいものばかりであった。オークション図録には「静妙軒簡介」があり、静妙軒主が浜田氏であることがわかる。仕事の合間に古硯、印等の収集に励み、日本で紹介するとともに、手拓による『静妙軒蔵印譜』や『静妙軒蔵研』の出版をしていることが知れる。
 図版に掲げた亀形陶硯は池の部分が7曲面をもつ。4本の足は力強く踏ん張り、頸は真っ直ぐ伸びている。





No.92 三体石経
     

     

                

  

 

 


 石経は経典の標準テキストを石に刻したものである。魏の石経は正始元年(240年)から正始9年(248年)にかけて刻された。
 35碑あり、『古文尚書』、『春秋』、『左伝』の一部が、古文、小篆、隷書の三体で書かれ、「三体石経」または「三字石経」といわれている。銭存訓(『中国古代書籍史』法政大学出版局)は、文字の配列に二通りあり、一は、隷書の下に古文と小篆が横に並んだもの。二は、古文・小篆・隷書の順に縦に並ぶものがあるという。
 また、張国淦の『歴代石経考』から、石経は洛陽の大学の講堂東側に約70メートルの長さのL字形をなして立てられたことを紹介する。   三体石経は漢の熹平石経と同じ場所に立てられ、晋の永嘉の乱により破壊され、避難した石経も魏の都?で崖崩れによる水没などにより失われていく。残石の発見は光緒年間(1875〜1908)のことである。  書者について、伏見冲敬(『書品』233号)は、わからないと言い、話題にのぼる人物でとして邯鄲淳、?康を挙げるが、ともに年齢の面で問題があることを指摘し、発見時のエピソードを紹介している。










No.91 陶範・熊
       

                  

    

  


 陶製品において同型のものを多く製作する場合には型枠を作り、粘土を押しあてて形成する方法や、幾つかのパーツを製作してから接着する方法がとられていた。漢時代、墓室に生活用具を収めるとともに明器を収めるようになっていく。この場合、簡単にして大量の陶製品が必要になる。
 出土文物の精査から陶製品の製作過程が明らかとなってきた。降振鎬(『漢代山東制陶業的発展』)は山東漢墓出土の分類と製作工程を分析し、李文杰(『中国古代制陶工芸的分期与類型』)は型作りとろくろによる製作を概説する。これらの論説をもとに、張翔宇(「西安地区西漢唐質明器制作工芸浅析」『考古与文物』2007-3)は、時代別に概要をまとめている。
 前漢早中期の陶鼎において、器蓋、器身はろくろで製作し、耳、足は型で造り全てを接着していることを指摘する。この場合の足は蹄足であるが、前漢晩期の陶鼎の足は熊足である。熊足も型作りによるものである。
 熊足は陶鼎のみならず、陶奩、陶倉などにも用いられている。図版に掲げたものは熊足の範である。どのような器物に用いられたものか想像できないが、熊の形状、獣毛の細かさまが見て取れる。











No.90 亀形陶硯
  

                  

    

  

 


 中国では考古学的発掘が盛んに行われ、多くの報告書で紹介されている。硯においても紹介されるものが多いが、まとまったものをみない。王冶秋『文物』(1964年第1期)に、「刊登硯史資料説明」を発表し、以後、24回にわたって硯史資料が掲載された。その中に、亀形陶硯があり、漢代のものとして紹介している。
 宇野雪村(『書の旅』)は、「王冶秋先生の『文物』誌上の『硯史』によると漢代としておられる。その後の出土陶亀硯で唐墓から発掘されているものがあるので唐代まで下げることも可能なわけである」というに留まる。
 西林昭一(『ヴィジュアル書芸術全集』第十巻)は、「すべて唐墓からの出土で、漢代の亀形の陶硯は、唐代にはじまるとみるのが実情に即しているようです」と述べる。現代においては、王冶秋が指摘する亀形陶硯は唐時代のものと位置づけられるようになった。
 亀形陶硯には、首の向きが真っ直ぐなものと左右に傾くものがあり、中には、二つの頭を持つものもある。なお、背の部分が墨堂となるが、墨堂と水池を分ける突堤を持つものとないものがある。ちなみに、墨堂の上には甲羅状の蓋が付くのであるがセットとなるものは少ない。
 図版には、墨堂に突堤を持つものを掲げた。










No.89 筆洗
   

                  

    

  

 


 文字通り、筆を洗う用具である。本格的に筆を洗うわけではないが、使用中の筆を洗い、墨で固まるのを防いでいた。使用される素材は多種多様で、玉、竹、木、洞、翡翠、瑪瑙、象牙、陶磁器の類がある。  その形状は水盂の口が大きく開いた形状で、洒落た装飾で机上を楽しませる用具となっている。現代では用いる人が少なく、過去の道具となるのであろう。
 中国においては文房具類を紹介する書籍が多く刊行されているが筆洗を紹介するものが多い。小さく小粋な文房具として水盂などとともに収集する人も多く観賞用として注目されている。
 日本において文房具類を鑑賞することのできる場所はない。中国においても多いとはいえないが、北京の首都博物館では書斎の再現コーナーとともに、文房具類が展示されている。「書房珍玩精品展」として、円形展館の6階にある。筆墨硯紙から筆筒、筆架、印材、筆洗などの名品を見ることができる。書に関わる人、書文化に関心のある人は、是非一度訪ねてほしい場所である。
 図版には、清末の景徳鎮民窯の辰砂のものを掲げた。









No.88 劉根等四十一人造像記
  

                  

    

  

 

 劉根等四十一人等造像記は光緒年間に洛陽に出土し、開封の鄭清湖が収蔵した。この拓本には模刻が多く知られているが、方若(『校碑随筆』)は、模刻の石花は鑿痕をあらわにするという。
 王壮弘(『増補校碑随筆』)は、重刻本に、民国間輝県重刻、洛陽の木刻本を指摘し、伏見冲敬(『書品』218号)は、顧変光の『石言』より、複刻について?禾農の手になるもの、輝県のもの、洛陽の木刻本を紹介する。原石は河南省博物館にある。
 この拓本には4行目下方の「劉根」が四角い枠の中に収められ、左側にも何カ所か四角い枠がある点、興味が持たれている。宇野雪村(『書の旅』)は、「石匠達が一定の形式を決めて刻しておき、注文に応じて発願者名を後で刻入するという方法を取ったのではないかと思われる。
 或いはある発願者のために刻したものが何らかの事情でキャンセルになり、別の発願者に振り替えたのかもしれない」という。伏見冲敬は、劉根の名は、他の字を消すために掘り下げた上に彫られ、後の列名には48人あるが、削って消された7人を引くと41人となり、右側の「*一人」の一は、二カ所とも後補で、「はじめ四十数人で話がまとまったので『遂に四十人有餘に至る』とし、概数として『四十人等』としたのだが、途中で抜けた人があったりして、出入りがあり、『四十一人』となったのだと思う」という。

 *は、40を<廿廿>一字とする










No.87 尚古法帖
   

   

                   

    

  

 

 

 尚古法帖は珍しい集帖である。『国書総目録』には、「尚古法帖 第八 一冊」とあり、空海の書と記載している。前田多美子(『日本書道事典』)は、「模刻帖。もとは何冊であったか不明であるが、現在は大口周魚旧蔵の『行成卿之部』一冊がつたわるのみ」という。
 図版のものは、巻首に「尚古法帖 第十八 行成卿」とある。刻は繊細で細く、刻のみならず摺りも高い技術が必要であったことをみてとれる。巻末には藤原茂利の跋、次行に刻者の井上清風名が示され、款記に「寛政十年(1798)仲冬月遠江斎田氏勒成」とある。
 藤原茂利の跋には、源重之朝臣の和歌、権大納言行成卿の真跡で一?紳家の蔵であったと紹介し、奇古精妙、結字痩勁は素直で美しく、規範を守り、本当に素晴らしいものである。用紙は当時の紙であり鮮明で一つの剥落も無くこのように完璧で、滅多に見られるものではない。収録したものは誤写の多いものであったが、この本にて本来の姿を再現するものであると述べる。
 掲載のものは「第十八」であるが、その全容はどのようなものであったのであろうか。新資料の提示として図版に掲げるものである。









No.86 円形板石硯・その3
   

   

             

    

  

 

 

 漢時代の円形板石硯を何度か紹介したが、今回は研石に注目したい。  図版に掲示したものは、研石が鉄で半球形に形成されたものである。研石の素材は、一般的に石であり、薄い石板の上部に木、粘土、金属による摘みが付くものもある。鉄で作られたものの報告をみない。ちなみに、鉄製の研石は錆がひどく、円形板石硯には研石の鉄分が流れた跡が付き、硯面に円形の研石が置かれた状態を示す痕がついている。
 漢時代の鉄使用状況について、谷豊信(「秦漢時代の金属工芸」『世界美術大全集』東洋編2、小学館)は、「漢代に入ると鉄製武器が増加し、実用の剣や刀については武帝のころには鉄製品に取って代わったと考えられる。鉄製の器具も増加し、釜、暖炉、灯、鋏などさまざまな器具や道具が、王者から庶民に至までの各階層の生活に用いられるようになった」という。鉄製品には官作と民間作があるが、鉄製の研石を見ないことは官作として作られたのではなく、民間による製作と考えられる。
 鉄製は重く堅い。墨の塊を砕くには適していたであろうが、鉄鉱石を熔解して半球形に加工する手間と、費用を考えると普及することは難しかったであろう。








No.85 朱拓・陽三老石堂画像題記
    

             

    

  

 

 

 拓本は大きな塊であるが、文字部分は左隅にまとまっている。元は後漢時代の墓室の壁に嵌められていたものの一部であろう。延平元年(107年)12月のもので、本文は3行で、首行28字、中行24字、末行23字。中行上部に額のように「陽三老」とある。
 この構成は「?他君画像石題記」(154年)、「胡元壬墓記」(171年)、にも見られ、石碑の形状を意識していると考えられる。なお、行を示す線が引かれており、「?他君画像石題記」の他に「文叔陽食堂題記」(144年)、「宋山永寿三年画像石題記」(157年)、「下?終郭郷画像石題記」(無年月)などにあり、木竹簡の構成を転用しているように思える。
 陽三老石堂画像題記は清時代の光緒14、5年に山東省曲阜に出土したとされているが、出土地点など詳しいことは不明である。端方が収蔵し、現在は北京の歴史博物館に収められている。
 最初に拓本を採るとき、記念に朱拓で採るという慣習がある。何時から始まったのであろうか。清朝考証学隆盛の中、採拓の意識が高まった頃に始まったのであろう。
 掲示の拓本には端方の「陶斎蔵石」印がある。








No.84 楚石
    

       

    

  

 

 

 毎日書道展第60回記念特別展として、「『春敬の眼』珠玉の飯島春敬コレクション」が開催された。2008年7月9日から8月3日まで、東京の国立新美術館である。飯島春敬(1906〜96)は仮名書家として古筆の収集に励み、研究、出版事業を行っていたが、上田桑鳩蔵品の拓本が散逸の危機を迎えたときまとめて引き受けた。
 同展では日本の古筆はもとより、中国の写経、碑法帖の拓本、明清の書、文房具類が前後期に分けて展示されていた。
 印材に注目すると、23顆の田黄、9顆の鶏血、2顆の楚石であった。田黄、鶏血は一般的に知られている有名なものであるが、楚石が展示されていて興味をもった。楚石は湖南省に産するもので漆黒である。童辰翊(『中国印石図譜』)は、清代に絶えたという。
 山内秀夫(『石印材』)は、「何といっても黒色においてはこの楚石をもって首位とする」といい、小林徳太郎(『図説石印材』)は、石色について「微かに緑を感じる漆黒」と述べ、「冴えた漆黒で独特の光沢に包まれた魅力的なこの石の、どっしりと安定した圧倒的な印象は人の心に泌みこむようである」と説く。
 田黄、鶏血に楚石が並ぶ。深みのある展示であった。







No.83 快雪堂法書【(★:さんずい編「豕」)拓】
    

   

    

  

 

 

 明時代、馮銓は馮開之収蔵の快雪時晴帖を入手し、法帖の首に刻して快雪堂法書と題した。馮銓は字伯衡。号は鹿庵。?州(河北?県)の人。明の万暦41年(1963)の進士で、官は武英殿大学士となる。清朝では中和殿大学士。万暦23年(1595)生まれで、康熙11年(1672)没す。
 刻年は款記が無く明確ではないが、王献之の洛神賦十三行の跋に、「崇禎十四年(1641)歳在辛巳?鹿馮銓」とあり、このころに完成したのであろう。刻者の劉光暘(字雨若)は、「式古堂法書」「翰香館法書」など刻しており、刻者として高く評価されていた。
 この法帖は、?州で拓されたことにより「?拓」と称されている。宇野雪村(『法帖事典』)は、「幸いにして?拓を過眼すること十本に近いが、凡て編次が異なり、同一のものがない」という。萬衣(『快雪堂法書』)は、この法帖は次々と編集しながら刻されたため、配列が非常に混乱している。ひどいものは一つの作品の前が石の終わりにあり、後ろが逆に石の初めに刻されていて、それぞれの拓本の装幀順序が異なるという。
 装幀順序に問題はあるが、王壮弘(『帖学挙要』)が「白紙、淡墨、擦拓は甚だ精なり」と評するように、蝉翼拓による上品で美しいものである。






No.82 頼山陽
         

    

  

 

 

 安永九年(1780)から天保三年(1832)の人。名は、襄(のぼる)、字は子成。幼名は久太郎。号は山陽、三十六峰外史。浅野藩儒員頼春水の子。早くから詩文に天賦の才を発揮し、叔父杏坪に学ぶ。江戸で尾藤二洲の門に入り、昌平黌に学んだ。
 常軌を逸した行動があり、21歳のとき脱藩して京阪に住む。その後、広島に3年ほど幽閉され、のち菅茶山の塾に入る。再び出奔し、文化8年より京都に塾を開く。
 書は頼家の家法に研究を重ね、当時流行の唐様に長じて一家を成す。書画の鑑識に詳しく、題跋の巧みさは有名である。画、篆刻にも優れており、関西文人墨客の指導的位置をしめしていた。『日本外史』『山陽詩鈔』など多くの著録がある。
 故山添三樹は天香堂目録『頼山陽―その詩・書・画―』のあとがきに次のようにいう。「ただこの人が山水画しか描かなかった事を見てほしい。大抵の素人は、蘭や竹から入るのに、山陽さんはそれをしなかった。
 横着千万といへばそれまでだが、ここにこの人の気概を見る。この人は胸中鬱勃の気を、山水画でしか発散できなかったのではないか」  図版には懸崖の蘭を示した。






No.81 箕形硯のルーツ
     

    

  

 

 

 柳秀芳『中華古硯』に、南北朝の長方形石硯がある。陝西省?橋出土のもので西安碑林博物館に収蔵されているもので、上方に半円形水池があり、繊細な幾何図形が彫られた北朝硯という。
 子細に図版を観察すると、墨堂面における幾何図形は龍門造像などに見るような、垂れ下がる玉飾りを彷彿させる。
 図版に掲げたものは、『中華古硯』で紹介するものと同型で、上方に半円形水池があり、研石を伴う。注目の墨堂には同様の線刻があり、龍門造像の仏龕を思わされる。柳秀芳が指摘するように北朝のものであり、龍門造像開削盛んな北魏時代のものであろう。
 北朝における硯の出土数は少なく、全容は明らかでない。漢時代と唐時代の形状から類推することとなる。漢時代の長方形硯は薄い板硯で、水池をもつものは円形三足硯に留まる。唐時代には新しい硯式として箕形が出現しているが、筆者は『澄泥硯』において、箕形硯の前身として「武定七年銘箕形硯」を位置づけ、そのルーツに図版の形状を取り上げた。
 半円形水池が硯尾まで伸び、陶製として形成しやすいように丸みを帯びた形状が「武定七年銘箕形硯」へと発展したと考えたものである。







No.80 西狭頌・五瑞図
     

      

  

 

 

 西狭頌の実体が明らかとなったのは十数年前であった。それまで、文献で想像するしかなかった拓本の位置関係も確認することができた。
 西狭頌は五つの部分からできている。一は、本文。二は、本文上部に「恵安西表」額。三は、本文左側に題記。四は、本文右側に五瑞図。五は、五瑞図下方の題記である。
 碑文とともに五瑞図が描かれている点、他の磨崖に類例を見ない。黄龍、白鹿、甘露降、嘉禾、木連理が線描され、その側に題字がある。図の左側には題記があり、李翕が黽池にいたとき、山奥の険しい道を整備し、徳は天に通じ、黄龍、白鹿の瑞兆が現れたので、その状況を描いたという。これらは後漢時代に盛んになった讖緯思想によるもので、李翕の徳行により上帝の意志が反映するという、天人感応説を具現化したものである。
 皇帝が存立基盤を強固にするために讖緯思想を利用していたことが知られているが、中央官僚においても讖緯思想を受け入れるための土壌があったことを物語る。太守である李翕は知識も高く、当然この思想を知っており、自らも用いたのである。
 道を利用する民衆にとって天人感応説はわかりやすい思想であった。







No.79 漢時代の瓶書
     

   

  

 

 

 謙慎書道会70回記念として「日中書法の伝承」展が開催(2008年2月28日から3月5日まで東京都美術館)された。基本的に民間の収蔵品を集めたもので、中国関係では、殷の甲骨文、西周の青銅器および拓本、秦代刻石の拓本、漢代の朱書陶器や刻石拓本、瓦当、磚から宋・元・明・清の書などが集められ、中国から「龍山里耶秦簡」「長沙市走馬楼前漢簡」「長沙東牌楼後漢簡」「★州蘇仙橋三国呉簡」などを借りていた。さらに、日本関係では、平安から江戸までの古筆、幕末の三筆などがあり、日中の篆刻関係もあった。
 朱書陶器には、朱書灰陶倉、朱書灰陶罐の2点があった。鍋島稲子(展示図録)は、「少数派ながらも石刻からでは知ることのできない隷書の鮮やかな波磔、そして隷書の早書きから発生する草書めいた書体など、細部にわたる書体変遷過程の一端を提供してくれる」と解説する。漢時代の肉筆が見ることができて貴重なものであった。
 今まで、書道博物館蔵品の墨漆書、朱漆書が有名であったが、近年、中国において漢時代の陶製品の容器に墨または朱によって書写されたものが陸続と出土している。図版には朱書瓶を掲げた。







No.78 正倉院蔵硯から
     

   

  

 

 

 毎年、秋には正倉院展が開催される。平成19年の第59回展では、北倉11件、中倉36件、南倉20件、聖語蔵3件の計70件が展示された。特に注目したのは、宝庫唯一の硯である青斑石硯が、筆墨とともに展示されていたことであった。
 青斑石硯について、同展図録を要約すると、斑(ふ)入りの石に嵌めこんだ陶硯で、須恵器の硯を青斑石の床石(とこいし)に嵌め、木製の台に据え付けたものである。この硯は、建久4年(1193)の『東大寺勅封蔵開検目録』の中蔵(中倉)の条に記されている、天平勝宝5年(753)7月1日に木筆・大色紙・墨などとともに絵櫃に入れて献納された「研一基」に該当すると考えられているという。硯は四片の青斑石を接合した床石に密着しており、裏面の状態は明らかでない。
 広東省韶関市の張九齢墓より出土した硯は、正倉院蔵硯と同様に、墨堂に突堤がある。張九齢が唐の開元29年(741)に埋葬されており、唐において流行していた硯式はすぐに日本に伝えられ、作られていたと考えられる。

 図版には張九齢墓出土硯と同じ硯式のものを掲げた。






No.77 筆覘
     

   

  

 

 

 筆洗の小型のものに筆覘がある。日本では筆点とも書くが、中国では筆覘のほかに筆添、筆?、筆舐と書かれている。
 書写の初めに水を含ませる。または、書写の途中で軽く水を含ませるときに用いていた。書写において必要不可欠な道具とはいえないが、筆覘に筆先を軽くつけ、硯で粘りのある墨の調子を整えたり、毛先を馴染ませたりしながら書写に取り組んでいたのである。
 中国では、文震享の『長物志』、高濂の『遵生八箋』などに「筆添」の記載があり、水晶や定窯のものがあったようである。現代においては、明、清代のものが伝わっているが、小さく洒落たものが多い。葉の形状のものが多く、象牙や陶磁器を薄い葉形にして花や蝶を散らしたものをよく見る。葉に溜まる水滴。筆覘の造形テーマに最適である。    日本では筆覘を用いることはなく、実物を見る機会は多くない。現代中国においても使用することは希と思われる。北京の首都博物館にて実物を見られることをすすめる。

 図版には水晶によるものを掲げた。





No.76 西狭頌
     

    

 

 

 宇野雪村は、昭和53年(1978)、玄美社から『西狭頌』を刊行したとき、解説に苦労していた。「恵安西表」について、張徳容(『二銘草堂金石聚』)は、西狭頌の上に在るといい、欧陽輔(『集古求真』)は、拓する人のいうところでは二丈ほど離れているということから、額ではないという。
 この相反する説があるなか、宇野雪村は、間隔が離れていることから別物と考えられるが、「摩崖における六米は別個の存在として決定する程の離れ方であるかどうか疑わしい」と指摘していた。西狭頌の全容を知るには現地を訪ねて確認する必要があったのである。
 西林昭一団長の考古文物研究友好訪中団は、1987年8月現地に赴き、「恵安西表」が本文十行目と十一行目の中間上方15センチのところにあることを確認し、篆額と断定した(『中国の書・史跡と博物館ガイド』)。ただこの時、五瑞図下方の題記は確認できていなかった。
 同訪中団は1992年8月、再び訪れて五瑞図下方の題記を確認し、近くに「武都」二字を見つけている(『ガイド中国の書―石刻・遺跡・博物館―』)。西狭頌の実体が明らかになったのは十数年前のことになる。




No.75 本朝名公墨宝

         

 

 

 和様法帖の祖といわれるのが『本朝名公墨宝』である。『国書総目録』は、3巻三冊。別称『本朝墨宝』。正保二年(1645)に刊行され、正保三年版、慶安元年(1648)版、明暦四年(1658)版があるという。
 久保木彰一(『日本書道辞典』)は、「正保二年(1645)に刊行された木版摺名筆模刻集。三冊。当時のベストセラーで、慶安元年(1648)版、延宝三年(1675)版など五種が知られる」といい、『国書総目録』に、延宝三年版を加えている。先人の書が集約されており、求める人が多く、再版が繰り返されたのである。
 内容は、上巻、弘法大師、木工頭道風朝臣、参議左理卿、権大納言行成卿、左京太夫定実、修理太夫行能。中巻、伏見院、後伏見院、尊円親王、尊道親王、尊鎮親王、尊純親王、近衛関白信基、本阿弥光悦。下巻、八幡山惺々翁。
 中国における集帖は、文字が白くなる拓本であるのに対して、『本朝名公墨宝』は、木版墨摺りによるものである。ここに唐様と和様の意識の違いが現れている。
 図版のものは、刊行年は明らかではないが、和様法帖の祖と指摘されるものだけに注目される。





No.74 円形板石硯・その2

     

 

 

 図版に示したものは漢時代の円形板石硯の破片である。  注目されるのは、非常に薄いことと、円周部分が一段下がっていることである。完品ではないが、非常に珍しいものとして取り上げた。
 北京の王靖憲は湖北美術出版社が『中国法帖全集』を刊行したときに副主編にあたった人物である。硯の収集も多く、『古硯拾零』にて182点を紹介している。その中に、薄い円形板石硯で、周囲が一段落ちるものを、上円下方形の研石とセットで紹介している。解説には、木盒に嵌めて使用したものという。薄いだけに、このままで使用すると破損する確立が高く、指摘されるように使用したのであろう。なお、外周が一段下がるのは、蓋との噛み合わせのためであろう。
 これまでこの形状のものの出土は少なく、@前漢中期の陝西省咸陽市二〇二所五号墓、A前漢晩期前半の江蘇省上海市福泉山M二〇号墓、B後漢中晩期の内蒙古自治区包頭市召湾九八M一号墓出土のものが知られるのみである。ただ、@A出土の研石は円錐台形であり、王靖憲蔵硯の研石は形状に疑問が残る。





No.73 升碑・史晨碑

     

 

 

 史晨碑は、建寧2年(169)の刻で、現在、山東省曲阜市の孔子廟内の漢魏碑刻陳列室にある。この石碑は碑陽、碑陰の両面に刻され、それぞれ前碑、後碑ともいい、合わせて「史晨前後碑」の称がある。なお、前碑に対しては、魯相史晨奏祀孔子廟碑(『両漢金石記』)のほか、魯相史晨祀孔子奏銘(『金石萃編』)など、その名称は著録により異なり、後碑については、ほとんどが史晨饗孔廟後碑とする。
 方若は『校碑随筆』の「魯相史晨謁孔子廟碑」にて、明から清初期の拓本は行末1字を拓さず、35字となっているのは土に覆われているためであるといい、続けて、「乾隆年間、升碑して後、乃ち全てを拓す」と述べる。「升碑」について、馬子雲(『中国碑帖ガイド』栗林俊行訳)は、「土をとり払い全字を拓し得ることを指して、『升碑』という」と解説している。翁方綱(『両漢金石記』)は、嘗て入手した百年前の拓本は、前後の二碑は一行35字で下1字を得られなかった。
 乾隆丁酉(1777)に曲阜の孔ヲ孟帰省の際、腕のよい拓工に諸碑を洗濯し、精拓本を採らせるように依頼した。史晨碑は碑の下が趺(台)に少し深く入っており従来拓すことができなかったが、力持ちの工人が碑を持ち上げて一行36字の拓本が採られたという。方若の述べる「升碑」は、碑を持ち上げて拓すことをさすのであろう。





No.72 方相氏

     

 

 

 漢時代の文物に熊をモチーフにするものが多い。この造形は単なる熊ではなく、方相氏と指摘されている。洛陽市老城西北1キロの焼溝墓区に焼溝61号漢墓がある。前漢後期(前1世紀後半)の?室墓で、前室横梁の壁画に「天象図」がある。曽布川寛氏(「焼溝61号漢墓の壁画」『世界美術大全集』東洋編、第二巻)は、「瑞祥」である玉璧をつかんだ熊が描かれており、「遅くともこの時期までに熊を『瑞獣』とする見方が中原地域に成立していたことはたしかである」と指摘し、「おそらくこの熊の格好をした怪獣も方相氏の一種であり、鬼退治をする前に飲み食いしているのであろう。宮中の大儺の際に方相氏に扮して役人がかぶるものは熊の毛皮であった」と述べる。1996年、大阪府立弥生文化博物館にて展示された山東省臨?区稷山出土の「?金熊支座」について展示図録(『中国 仙人のふるさと−山東省文物展−』)は、「熊は漢代の十二神獣のひとつで、方相氏ともよばれ、妖怪を退け、邪をよけるはたらきがある」と解説する。展示品の熊は大きく口を開いて何者かを威嚇する情景を示す。ちなみに、この情景は大形徹氏(「張目吐舌−霊魂との関連から−」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』)が指摘する「張目吐舌」を想起させる。
 図版は漢時代の★金の釦飾りである。上円下方形で上円に熊が彫られている。

           ★…流+金





No.71 二王帖

     

 

 

 二王帖は王羲之と王献之の書が刻入されており、宇野雪村(『法帖事典』)は集帖に、容庚(『叢帖目』)は個人の項に入れている。原刻の「二王帖」は南宋の許開(字は仲啓)が清江(湖北)の太守をしていたときに刻したものであるが、現在見ることができない。明時代に湯世賢(兼隠斎)が翻刻したものが一般に知られている。
 湯世賢翻刻本は帖首に二王像(王羲之・王献之)があり、三巻からなり二王帖目録評釈一冊を有する。上巻の款記に「嘉靖丁未七月二日、呉興郡兼隠斎模勒上石」、中巻に「嘉靖丁未九月四日、(以下同)」、下巻に「嘉靖丁未閏九月朔、(以下同)」とあり、短い期間に刻が完了したことがわかる。呉興郡について容庚は、張伯英(『法帖提要』)の言を引いて、呉興は郡望、呉興郡は今の浙江省呉興県地方で、湯氏はその地の有力な家柄の人であり、兼隠斎の斎号をもつと説く。
 この法帖について、後に董漢策が翻刻した「二王帖」のなかで、彭履道は模勒上石というが、木刻のものであるという。原刻は石であったろうが、湯世賢は木に刻したのであろう。故に、短期間にて完成をみたといえる。
 図版は湯世賢翻刻二王帖、巻中である。





No.70 韓天寿

     

 

 

 享保12年(1727)から寛政7年(1795)の人。名は天寿、字は大年。酔晋斎または三岳と号した。天寿はタカカズと読んだというが、今日ではテンジュで通っている。米田彌太郎(『近世日本書道史論攷』)は、『松阪文芸史』より、伊勢の川喜田半泥の祖母の里の竹川竹斎から、半泥の父政豊にあてた書信に「天寿という名乗りは、馬陵の撰、タカカズとよむ」とあることを紹介する。また、同氏は、出自について、生家は青木氏であるが、松阪の豪商中川家の養子となり、通称中川長四郎、屋号田丸屋の当主となったといい、京都の青木氏は馬韓の餘璋王の子孫で、「天寿の『韓』はこの馬韓からとったもので、時に『韓国餘璋王裔』という印を用いている」という。
 天寿は碑帖収集に熱心で、刻帖製作に情熱を注ぎ、多くの法帖を世に出して高く評価されていた。米田彌太郎は安西雲烟の『近世名家書画談』に、「模勒の精良なものはこれよりさきに見るところがない、大年は碑帖を得ればこれを数十回臨書して、それから双鉤して刻するのだから、一つの版に数十日かかった」と述べていることを紹介する。模刻法帖に『酔晋斎法帖』が知られているが、三重県松阪市の岡寺山継松寺にて刊行された墨帖は版木とともに保存されている。この集帖は「岡寺山版」、「岡寺版集帖」、「岡寺山版墨帖」、「獅子吼堂蔵墨帖」などと称されており、平成20年9月、読売書法会創立25周年中部展紀年企画展に集帖と版木が展示された。図版に扇面の書を掲げた。




No.69 四熊足円形陶硯

   

 

 

 漢時代晩期には陶製の硯が作られたようであるが、西晋時代には陶製で平坦な硯面の周りが高く聳え、凹心形をなし、三熊足が支えるものがある。硯面以外に釉薬がかけられ、美しさをます。『中国陶瓷全集』(4、三国・両晋・南北朝、上海人民美術出版社)に収録するものをみると、硯面に9個の火色がみえ、硯側の突堤の外側が張り出し、蓋を受ける構造となっている。蓋付きで出土するものもあるが、多くは蓋を有していない。それだけで完成品であったのだろう。硯裏の熊は小さく蹲る。この熊はただの熊ではなく、方相氏と考える。魑魅魍魎、悪鬼を退ける意味をもつものである。
 図版のものは四熊足円形陶硯である。墨堂は微かに盛り上がり突堤に囲まれている。突堤の外側は張り出しており、蓋を受ける形状となり、硯側下部は下にすぼみ、硯裏は平坦となる。越州窯のもので、墨堂には28個の火色がつき、硯裏には端に3本、内側に2本、その内側に1本の陰刻線が廻り、端に四熊足が付く。ただ、1本の熊足は同形のものをつけて補修している。三熊足のものは多いが、四熊足のものには、浙江省紹興県西晋墓出土(『文物』1987-4)のものが1点紹介されるのみであり本品は非常に珍しい。




No.68 刑徒★(土+専)

   

 

 

 京都の岡崎に有隣館がある。1992年、日本書芸院展の特別展示が有隣館展であり、『有隣館名品展図冊』が刊行された。同書の福本雅一氏の解説は以下のように言う。
  有隣館は近江の藤井家四代の善助氏(1873〜1943)によって創設された。氏は上海の日清貿易研究所(後の東亜同文書院)に学び、家業の紡績(東洋紡の前身)と綿花輸入(兼松江商の前身)を通じて中国と深い係わりをもった。また明治四十一年より四期、滋賀県選出衆議院議員となり、その間、中国通の文人政治家犬養木堂と親交があった。
 善助氏は犬養木堂、内藤湖南、長尾雨山らの助言を受けて中国文物の収集に務め、大正十五年(1926)に有隣館を建て、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣有り」より名付けた。
 図版の刑徒?は有隣館蔵品で一面に「深宅張他」、裏面に「張他葬」と鋭い直線で彫られている。これは★が固まる直前に竹または木のへらで書かれたことによる。この★は端方旧蔵で、『☆斎蔵★記』巻下に収録されている。深宅は貫籍で張他が人名と思われ、一番シンプルな刑徒★である。

作字;★(土+専) ☆(竹+甫+皿)



No.67 「千秋萬歳」瓦当

   

 

 

 「千秋万歳」瓦当は、「吉語」に分類される。千秋は永久を、万歳は健康・長寿などを祝す言葉で、いつまでも健康で長寿であるようにとの意味をもつ。吉語瓦当中数量は最も多く、使われた期間も長く、分布の範囲も広い。
 「秋」「萬」「歳」字の画数が多いだけに、「千」字とのバランスが難しい。四分の一の中で全体のバランスをとるためにさまざまな工夫がなされてきた。『中国書法全集』第九巻より、「千」の造形を工夫したものを紹介すると、一画目をU字型にし、縦画を左右に曲げて線を増やして左読としたもの(前漢・陝西華陰磑峪郷漢京師倉遺址出土)、鳥が飛ぶような造形とし、横画の羽を強調したもの(前に同じ)などがある。なお、『墨』117号には、「『千』字に見る書法の様式と文字構成」として図版が示されている。
 図版は「千」字を双鉤にして線の量を増やしている。この形状と同じものが西安漢長安城遺址より出土(『中国書法全集』)している。



No.66 宋改刻漢★(土編+専)硯

   

 

 

 陸和九(『中国金石学』)は、宋時代は金石器の復古時代で金石学発達時代という。金石学隆盛は欧陽脩(1007〜72)にはじまり、『新唐書』『新五代史』を撰述するとともに『筆説』『試筆』『集古録跋尾』を残した。石田肇氏(「金石学の歴史」『書道金石学』書学大系研究編5、同朋舎)は、欧陽脩・劉敝<りゅうしょう>(1019〜68)・李公麟<りこうりん>(?〜1106)の諸家が現れ、金石学が流行し、多くの金石が発見され、あるいは盗掘されて世に出ることとなったといい、徽宗皇帝(在位1100〜25)は金石ブームを集大成したと述べる。ちなみに、徽宗は古器を収集して宮中の宣和殿に収蔵し、勅撰の『宣和博古図』をまとめている。
 図版の★は漢時代のもので、宋時代に手を加えて硯としたものである。北宋時代、金石に対する関心は高く、古器物の採集とともに瓦や?も掘り出され硯に用いられた。石硯の広まる北宋時代には重宝されたであろう。



No.65 長沙窯水注

      

 

 

 以前、貯水、注水の道具にふれたが、現代中国では以下のように紹介されている。
1,水盂:別名に、水盛、水丞、水中丞があり、小さじが付く。
2,水注:水を入れる孔と、注水の孔があり、小型の茶壷に似る。
3,硯滴:水滴、書滴とも称されている。
4,筆洗:口がひろがり筆を洗う。
5,筆?:筆覘、筆?とも称される。小型の皿で精緻な彫琢が施されるものが多い。
 図版は唐時代の水注で、長沙窯のものである。長沙窯の窯跡は長沙市望城県の石渚一帯にある。1983年、湖南省の文物工作者は国家文物局の許可を得て、長沙窯発掘協同グループが結成され、科学的な方法で発掘が行われた。1986年11月10日発布の中国科学院科学研究局(86)科学第23号の通告に「長沙窯」が国家第七回五カ年計画の重点研究計画に定められ、湖南省文物考古研究所、湖南省博物館、長沙市文物工作隊合著による『長沙窯』(紫禁城出版社)が刊行された。長沙窯は安史の乱が終わった頃に始まり、中晩唐五代の頃最盛期という。ちなみに、図版の水注は同書によると「A型T式水注」に似る。


No.64 偽刻

        

 金石に対する意識が高まり、拓本の収集に意識が高まると、遠隔地の刻石等に注目が集まる。世間に知られていない拓本、深山幽谷の地にて採拓が困難なものなど垂涎の的である。その中で、有るはずの無い刻石を造り拓本を頒布するものも現れる。清の方若は『校碑随筆』において56種の偽刻を掲げており、王壮弘は『増補校碑随筆』に118種を増補している。馬子雲は『碑帖鑑定浅説』に120種掲げ、造像、真像に題記を偽刻したものは多く、挙げきらないという。
 馬子雲の『碑帖鑑定浅説』は栗林俊行氏によって翻訳(『中国碑帖ガイド』二玄社)されている。同書で馬子雲は、「真偽を鑑定するには、多方面の知識が必要で、全面的に考慮すべきであり、同時に必ず理論を実際に結びつけ、はじめて正確な結論を得られるのである」という。
図版は典型的な偽刻である「大禹??碑」である。方若、馬子雲とも偽刻リストの最初に「夏」の偽刻として掲げている。

No.63 偽竹簡

        

 1995年、日本、台湾、香港などに大量に「湖北省出土・戦国時代楚の竹簡」が出回った。筆者も友人とともに購入した。しかし、この竹簡は偽物と指摘され、大きな反響をよんだものである。本稿では「書道美術新聞」平成8年(1996年)2月11日付けより、どのような指摘から偽物と判定されたのかをまとめ、文物鑑定の参考にと紹介したい。
A)書写内容から
1,1本の簡の中に1987年出土の包山楚簡から、写し易い箇所を部分的に引用している。
2,包山楚簡は位の高い貴族の裁判関係文書で、一般の墓から類似の内容のものが出てくるのがおかしい。
3,「干支」で始まる部分を好んで引用して本物らしく見せている。
4,文字の誤写している箇所が多い。
B)科学鑑定から
 東京大学総合研究資料館・放射線炭素年代測定室が「東大ATM・C14年代測定システム」で調査したところ、「現代の竹」との結論に至った。
 書写内容の面において4点の疑問が提示されたが、放射線炭素C14による年代測定が決定的なものとなったものである。

No.62 北宋澄泥硯

 澄泥硯の完成が北宋時代と指摘したが(『澄泥硯―歴史とその実体―』)、素材となる細泥の収集について紹介したい。
 中国では戦国時代から瓦の製造が始まり、建築用材として?が作られてきた。これらは一種の煉瓦で、長い歴史の中で製法が発展してきた。素材とする粘土に対して吟味されてきたであろうが、河川に堆積する粘土質の土が細泥であるだけに注目された。
南唐の進士である張?<ちょうき>(『賈氏譚録』)は、絳県の人が絹袋を汾水に置き、河中を浮遊する細泥を集め、一年後に回収して澄泥硯の胎土としたことを述べる。蘇易簡(『文房四譜』)は細泥収集を、泥を攪拌し、沈殿しきれない細泥を布袋で濾して集めたという。張?の細泥収集が一年を有するのに対し、蘇易簡の指摘する方法は効率的な収集であることが大きく異なる。
 硯にする細泥を効率的に収集することができたことにより、澄泥硯が大量に生産され、広く市場に出回ることにより社会的認知が高まり、四大名硯として評価されたのである。
 図版は硯裏に「汾州任家」の印記を有する澄泥硯である。

No.61 翻刻・多宝塔碑


 多宝塔碑は天宝11年(752)、顔真卿44歳の書で、徐浩が題額を書いている。用筆は厳正、結構は緊密なことから、初学の手本として学ばれてきた。
 図版上の拓本は皆川淇園(1734−1807)と貫名菘翁(1778−1863)の収蔵印がある。皆川淇園は京都の人。江戸時代後期の古学派の儒者として知られ、画にも長じていた。 貫名菘翁は詩、書、画に卓越し、幕末の三筆として高く評価されている。書は晋唐に法を求め、碑法帖の原拓を学んでいた。碑法帖の収集にも力をいれ、その蔵書の一部を京都の下鴨神社に奉納したことは有名である。
 両者の収蔵印のある多宝塔碑は、江戸時代に入ってきた古渡り本で、原拓ではなく、翻刻本である。宇野雪村(『法帖事典』)は、「古渡り本の帖で古書店に姿を見せるものをかなり過眼したが、古拓の佳帖はほとんど来ていないようである」という。皆川淇園、貫名菘翁とも書に対して高い意識を持っていたが、入手には限界があり、翻刻本であってもやむを得なかったであろう。
 下の図版は原拓である。それも、貫名菘翁の弟子、小林卓斎が収蔵していたものである。日本書道史に名を残す貫名菘翁が収蔵していた拓本が翻刻本で、その弟子が原拓を収蔵する。それぞれの生きた時代が拓本を通して窺い知ることができる。




No.60 江戸古墨

 

 日本に墨の製法が伝わったのは中国、あるいは朝鮮であるのか明らかではない。宇野雪村(『文房古玩事典』)は、記録の上では推古天皇の十八年(610)、高麗僧曇徴が来朝して伝えたことになっているが、それ以前に伝わっていたと思われるという。
 江戸時代の墨に関して宇野雪村の述べるところをまとめると、紀州藩に復興した藤白墨があり、尾州徳川藩の命による東秀園の豪華墨があり、室町時代に墨業を始めた古梅園の六代目松井元泰は『古梅園墨談』『古梅園墨譜』『太墨鴻壷集』を刊行し、七代目元彙は『古梅園墨譜続編』を刊行しているという。なお、福井土佐椽藤原守美の墨譜と思われる『桂花園墨譜』があることを紹介する。
 宇野雪村は中国古墨の収蔵に秀でていたが、和古墨の収集はままならなかった。それでも、蔵品を選んで主宰する玄美淘展の特別陳列に展示し、図録にまとめている。その『江戸古墨五十選』に「撃甕図」二種が収録されている。1は、篤老園。2は、古松堂である。目録に、「春松園造のものを過眼」としるしている。図版のものは使用され、文字も明瞭でなく微かに「南都□松園(下部使用)」と読める。「春松園」であろうか。江戸中期と思われる。




No.59 三希堂石渠寶笈法帖・2種
 
 
   


 北京の紫禁城(故宮)は明・清二代の皇宮であった。この紫禁城には多くの宮殿があるが、その一つに養心殿がある。さらに、養心殿の中にある西暖閣に「三希堂」がある。「三希堂」は元来「温室」と呼ばれ、皇帝の小書斎として使われていた。乾隆帝は書画に関心が深く文墨趣味豊富であった。乾隆初年、王義之の「快雪時晴帖」、王献之の「中秋帖」、王ジュンの「伯遠帖」の真跡を手に入れて大いに喜び、温室に収め、書斎の堂号として「三希堂」を用いた。現在も「三希堂」は当時のままに保存されており、堂内に乾隆帝の手になる「三希堂」の額とともに「三希堂記」が掛けられている。
 乾隆9年(1744)、乾隆帝は清の宮廷が収蔵する書画の目録書「石渠寶笈」を作ることを命じ、乾隆12年(1747)、「石渠寶笈」に記載されている歴代の法書から選んで石に刻させ、乾隆18年3月から6月にかけて32冊になる集帖が完成した。ちなみに費用は、工料銀二千百五十両という。
原石は北海公園の閲古楼に保存されているが、刻石の修理が何回か行われてきた。そのなかで帖の周りに万字紋が刻された。道光19年(1839)以降に拓されたものには万字紋がある。図版には万字紋の刻される前のものと、後のものを比較して示した。




No.58 菅茶山
      


 延享5年(1748)から文政10年(1827)の人で、名は晋帥<ときのり>、字は礼卿、通称は太仲。茶山は号で備後の人。福山藩に仕え、詩人として知られている。学問を好み、京都に出て那波魯堂につき朱子学を修めた。のち、帰郷して子弟を教授した。その塾を黄葉夕陽村舎<こうようせきようそんしゃ>と号した。
 その書は、自由で伸び伸びと書かれた線、ゆったりとした文字造形から生まれた独特な風韻をもつ。柴野栗山、古賀精里、尾藤二洲らと交遊し、『黄葉夕陽村舎詩』、『遊芸日記』などの多くの著書がある。私謚して文恭公といった。

 図版は横に「看雲」とある。素直な筆遣いでゆったりと書かれており、落ち着いた感じをうける。もとは横額で部屋の上に掲げられていたであろう。座して見上げるに、ゆっくりと流れる雲を追うが如き空間をうむ。




No.57 帯蓋円形三足硯
    

 漢時代の硯の形状は、秦時代からの天然板石硯に磨石がセットになったものから、円形板石硯、円形板石硯に三足が付くものへと発展した。さらに、蓋が付き帯蓋円形三足硯と称す形状のものが作られた。
 円形三足硯の硯面は平坦で、蓋と噛み合わせるために外周が一段低くなるものや突堤が廻るものがある。なお、硯面に耳杯形の水池を有するものもある。蓋の内側の中央に空間があり、蓋をしたときに中央に置かれた研石が納まるように作られている。
蓋は高く盛り上がり龍などの瑞獣のレリーフや、瑞獣の棲む神仙の世界である博山が表現されている。この表現は書写が単なる行為ではなく、文字を書くことにより社会に影響を与える特別な行為として意識されていたと想像するものである。法政文書、行政文書、出納文書、通信文書の許可、命令を書す立場の人物が用いたとのではと想像するものである。大形の硯であり、調度品としての存在感をもつものであるだけに使用者は高位の人物であろう。
 図版のものは、蓋の外側に博山が表現され、内側は凹み朱が残る。硯面は平坦で、外周が一段低くなり蓋を受け、三熊足が支える。



No.56 陶量
    

 秦の始皇帝が天下を統一すると度量衡、車幅、文字の統一を推進する。度量衡の場合、標準器を制定し、各地に交付し、税の徴収に用いられた。図版の拓本は京都の有隣館収蔵の陶製の升で、外側に10個の印が押され秦の始皇帝26年の詔書となる。萩信雄氏の訳(『有隣館名品展図冊』)を紹介すると、

  廿六年、皇帝はことごとく天下の諸侯を併合し、人民はおおいに安らかとなり、尊号をたてまつり皇帝とされた。そこで右丞相の隗状・王綰に詔書を下した、法度量の制度で同じでないもの、不満で疑わしいものは、すべて明白にして統一せよと。

とある。なお、左上の文字は底部にあり、製作地を示すが未詳である。
銅製の升もあるが、陶製の升が意味するものは、短期間に大量に製作し、全国の隅々に升を交付する必要があり、陶製で作られ、銘文を印で押したことである。『中国古代度量衡図集』(みすず書房)には同型の陶製枡が4点収録されている。同書より、有隣館蔵品は直径16.8、高さ7.3センチということから半斗枡と考えられる。


No.55 偽瓦当
    

 戦国時代に半瓦当から円瓦当に発展する。斉では樹木円圏乳丁紋、単馬雲紋、雲草乳丁三葉弁紋などがある。秦の瓦当には動物画像が多く、鳳、鹿、虎、馬、蟾蜍などがある。漢時代に入り、円形の瓦当は「画像瓦当」よりも「文字瓦当」が盛んになる。
 文字瓦当はその内容により幾つかに分類される。陳直(『秦漢瓦当概述』)は、「宮殿」「官署」「祠墓」「吉語」「雑類」に分けている。松丸道雄氏は、古河歴史博物館別館の篆刻美術館にて催された「中国秦漢瓦当展」のカタログ(「秦漢時代の文字瓦当」)で、「宮殿・宮苑」「皇帝陵廟」「官署」「王侯貴族邸宅」「王侯貴族冢廟」「記事」「吉語」の7類に分類し、劉慶柱(「漢代文字瓦當概論」『中国書法全集』第九巻)は、「宮殿」「官署」「陵寝建築名」「地名」「紀年」「記事」「記氏」「吉語」の八種に分けている。それぞれの考えによる分類である。
 20年前程から瓦当の出土が増加した。以後、瓦当を整理して紹介する刊行本、原拓による本が販売されるようになり、実物を収蔵する人も多い。瓦当が多く市場に出て、多くの人が求めるようになると偽物も増えてくる。図版の永寿嘉福瓦当は吉語のよる瓦当で、虫書体という珍しい書体であることにより注目する人は多い。それだけに、偽物が作られるのである。

No.54 唐三彩硯
    

 今世紀の初め、唐三彩は発見された。『日本の美術』第76号の小山富士夫編「三彩」は、河南省の洛陽から江蘇省の連雲港間に鉄道敷設計画がおこり、1905年着工し、1909年完成した。このとき洛陽付近の古墳群から多くの唐三彩が発見されたという。
 唐三彩は文献に記載されず、古墓から出土する明器である。呉戦壘(『図説中国陶瓷史』浙江教育出版社)は、考古学による発掘に唐時代の麟徳元年(664)昭陵陪葬鄭仁泰墓、上元2年(675)献陵陪葬李鳳墓出土品があり、初唐後期に唐三彩は出現し、天宝年間(713〜756)に質量とも盛期をむかえたという。さらに、安史の乱以後、唐衰退とともに唐三彩も徐々に衰え、中晩唐には根絶に近い状態になったと述べる。
 台北市の国立歴史博物館(『歴代硯台展』)に「唐三彩百足硯」がある。円形で、硯面中央は無釉で、硯面、腰部、足部の三段にわかれ、腰部には16の獅子が座している。釉は黄、緑、褐色で、白斑があり抜蝋法(蝋はじきで浮かび上がる白斑)による製作である。 図版のものは、黄、緑、褐色の色釉を筆に含ませて器面に塗る塗釉法によるもの。小品で、淡い色が美しい。腰部には顔と一本足に集約された獣足である。硯面には釉がかけられていない。

No.53 長沙窯水盂
    

 磨墨に水は不可欠である。貯水、注水の道具としてさまざまな形状のものがある。宇野雪村の指摘する分類(『文房清玩』下)を参考に以下に示す。
1,水盂(すいう):口が広く、匙で水を汲み取るもの。筆洗、筆覘、水注、水丞の総称として用いることもある。
2,筆洗(ひっせん):口が広く開いている。使った筆を洗い流すことにも用いられる。
3,筆覘(ひってん):筆点とも書き、筆洗の小型。厳密な区別は難しい。
4,水丞(すいじょう):胴がふくらみ、口がややすぼまる。匙で水を汲む。
5,水注(すいちゅう):取っ手があり、注ぎ口が鳥形に突き出る。
 @土瓶形(どびんがた)・取っ手がつるになり器の前後に渡る。
 A急須形(きゅうすがた)・取っ手が注ぎ口の反対側の胴につく。蓋につまみ・小孔がある。
6,水滴(すいてき)・器に二つの小孔があり、注ぎ口は小さく突起している。蓋はない。
 今回紹介するものは唐時代の水盂で、長沙窯のものである。

No.52 孤本・孔子廟堂碑
    孔子廟堂碑は建立間もなく亡失した。この碑からの拓本は1本だけが現代に伝わる。原刻からの拓本で1本だけが伝わるものを「孤本」という。この拓本を子細に研究した金石学者の翁方綱は、全体の四分の三が原刻の拓であると断定し、残りは陝西本で補い、加筆や入墨があるという。この拓本を所持していた李宗瀚は、啓法寺碑、孟法師碑、善才寺碑の孤本も所有しており、この四本を臨川李氏四宝と称されるようになった。
 孔子廟堂碑の完全な原刻は存在しない中、この拓本は唐刻、唐拓を有する上で重要なものである。この拓本は日本の三井聴冰閣に入り、現在、三井文庫に納められている。
 北宋時代の初めに王彦超<おうげんちょう>が原石の拓本をもとに覆刻し長安に建てたものに陝西本があり、西安の碑林で見ることができる。また、元の至正年間に定陶県(山東省)で黄河が決壊した際に出てきたもので城武の学宮に置かれたことから城武本というものがある。翁方綱は城武本の方が陝西本より古い拓本を用いて刻していることを指摘し、城武本を重んじている。市澤静山氏の解説する「翁方綱の跋文から拓本を探る」(『墨』128号)の頁は、唐拓、陝西本拓の混入状況がわかりやすい。図版は陝西本である。
No.51 お土産の木簡
              1990年8月15日から24日まで、故上羅芝山先生を団長とする甘粛省史跡研究訪中団に参加した。大阪、上海、西安、蘭州、嘉峪関、敦煌、蘭州、天水、西安、上海、大阪と移動した。敦煌での莫高窟、蘭州の炳霊寺、天水では麦積山が見物であった。甘粛省博物館で展示品に心を奪われるとともに、売店でさまざまなものを購入した。また、可双全氏のおかげで木簡を間近に見ることができた。

 図版の木簡はその時に購入したものである。数年後、可氏が日本に来たときに木簡を見てもらうと、漢代の遺跡発掘時に掘り出された木を木簡状に加工し、お土産用に書写されたものということがわかった。なお、現代は漢代の木の出土は少なくなり、現代の木に書かれていること。漢代の木に書かれたものとして貴重なものであるという。

 木簡のイミテーションではあるが、本物の木竹簡を入手することが不可能な中、一つの参考資料として求めたものである。

No.50 澄泥硯の嚆矢
   
   

     

 

 書写に硯は必需品である。澄泥硯は四大名硯の一であるが、その実体については長い間明らかではなかった。平成19年6月30日、アートライフ社より『澄泥硯―歴史とその実体―』を刊行して明らかにしたものである。
 澄泥硯の淵源を瓦に求める指摘は多く、銅雀台の瓦が注目された。この銅雀台瓦は北斉の天保年間(550〜559)に銅雀台を改修したときに用いられたものである。その特徴は「瓦を胡桃油に漬けた」ことである。このことにより雨水の防水とともに、苔などの予防にも役だった。この製法が澄泥硯製作に生かされる。『文物』(1965-7)に、西安東郊郭家灘工地唐墓より出土した「箕形平底陶硯」が紹介されており、硯裏に「武定七年/為廟造」の印記があり、銅雀台改修時の瓦の製法をもとに製作されたのではとの推定に至った。
図版の硯は『文物』に紹介されたものと同型であり、子細に観察すると、微かに雲母粉が確認される。細泥質で雲母粉を含むことにより澄泥硯として提示したものである。このことより、澄泥硯の淵源が北斉の天保年間に使われた瓦の製法にあると考えた。なお、王青路蔵品(『古硯品録』人民美術出版社)には、箕形平底陶硯の硯裏に「萬歳」の印記を有するものがある。

No.49 未洗本・鄭羲下碑
 

     

 

 葉昌熾(『語石』)は、刻石に草がはえ、苔むし、土が付いているものを洗わずに採拓すると良い拓はとれないと述べるとともに、刻面を掃除したあとの拓本は明瞭になり、単に古いだけで文字の不明瞭な拓本より値打があるという。このように、刻された文字がはっきりするように刻面を掃除することを洗石といい、その拓本を洗石精拓本という。
 鄭羲下碑には、洗石前の拓本があり、「未洗本」と称されている。西東書房から刊行された上田桑鳩蔵本がこれにあたる。
 拓本を書学習の手本、考証学の資料として位置づける人は、文字が明瞭に判読できる洗石精拓本に対して高い関心を持つ。しかし、文字が不明瞭であっても、洗石以前の拓本に金石の気を感じる人、洗石以前の拓本は数が少なく希少価値があると考える人は、好んで求める。人と異なる価値を持つものを求める収集家心理は複雑である。
 図版の拓本は、鄭羲下碑全体の拓本である整拓本を、行ごとに切り、線装本に貼りつけたものである。法帖に仕立てるもののなかで一番簡単なものである。

No.48 昌化石
  

 

 

 昌化石は浙江省昌化県の玉岩山より産出することより名付けられた。なお、1960年、昌化県は臨安県に併合されている。昌化石は鶏血石として知られ、田黄、芙蓉とともに印石三宝と位置づけられている。
 昌化石は明初より採石が始まる。童辰翊氏(『中国印石図譜』上海遠東出版社)は採石の歴史を次のようにいう。農民が柴刈りに行き、鮮血がついたようにみえる石を見つけ持ち帰った。村民も驚き、鶏の血の色から鶏血石と名付け、彫刻を加え、工芸品として市場に出したという。こののち、多くの人に注目され、乾隆49年(1784)、乾隆帝が浙江の名山、西天目山にある禅源寺を訪れたとき、義遠禅師より鶏血石を贈られた。乾隆帝は喜び、「乾隆之宝」を彫らせたという。その後、鶏血石の評価は高まり、求めるもの多く、採石が盛んになったという。大量に採石されたため、現代では枯渇している。なお、石巣(『印石弁』中華書局香港分局)は、鶏血石は葉蝋石に属し、紅色は辰砂(HgS)によるという。
 田中角栄元首相が訪中した際、国務院総理であった周恩来より鶏血石が贈られている。中国の特産品として高く位置づけられていることを示すものである。

No.47 続余清斎法帖
  

 

 

 「余清斎法帖」について欧陽輔(『集古球真』)は「皆な木版なり」、王?(『法帖考正』)は「惜しむらくは是れ版本」、容庚(『叢帖目』)は「全て木刻である」という。ただ、楊守敬(『学書邇言』)のみが石刻説であった。昭和54年、原石が発見されるに及んでこの問題に終止符が打たれた。
 原石について、王壮弘(『帖学挙要』)は、呉廷の故郷である歙県の西渓南村に長期保存され、のち、岩村鮑氏が所蔵し、いま、歙県の太白楼新安碑園に36石あり、2面合わせて61面となるという。
 昭和54年に原石が発見され、博物館に入るまでに慶雲堂が拓本をとり、世間に広まった。その後、原石を収蔵する施設を造るために多くの拓本が取られ、頒布された。図版では「楽毅論」の部分で、右側は明拓のもの。左側は原石が発見されてからのものである。
No.46 市河米庵
   

  


             

 市河米庵は安永8年(1779年)から安政5年(1858年)の人。姓は源、名は三亥。字は孔陽、また小春。米庵と号し、楽斎、半千筆斎、小山林堂、金洞山人、百筆斎、顛道人とも号した。江戸に生まれる。亥年、亥日、亥刻に生まれ、三亥の名がある。
 若いときより書に志し、林述斎、柴野栗山について学び、宋の米?を慕い、23歳のときに長崎に遊学した際には、清人の胡兆新に啓発された。父寛斎没したあと、江戸で書を教授したが、大名から僧侶に至るまで5000人の弟子がいたといわれている。
 書は宋の米?を根底とし、晋唐を学び、当時入手しうるあらゆる碑版および明清の集帖を臨模した。貫名菘翁、巻菱湖とともに幕末の三筆といわれている。
 市河米庵は学書に対して系統的に説くとともに、文房具の類にまで関心をもち、幅広く、資料を収集し、多くの著述にまとめている。著述には『米庵墨談』『米庵蔵筆譜』『墨場必携』などがある。
 図版には市河米庵が書く、李白の桃李園序である。
No.45 鷓鴣斑石硯
        
             
 端渓石の中に、鷓鴣の羽にある斑点に見えるものをもつものがある。この石を鷓鴣斑石と称していた。当然、注目され、端渓であるが故に高い価格となって取引されたであろう。
 図版の硯は桐箱に入っている。その題に「宋端渓」とある。しかし、石は端渓石ではない。山東省から産出する「魯硯」の一つ、「温石」であった。桐箱の蓋の裏には「軽陰」の題字と沈約の「高松賦」が細野燕臺の手で書かれている。箱の中には袱紗に包まれた硯が入っている。その硯に、紫檀の蓋がつき、表に金漆で「軽陰」と行書で書かれ、裏に朱漆にて「申三」とある。これらのものも細野燕臺に関わるものである。
 細野燕臺、明治5年、金沢の商家に生まれる。漢学者で茶人。書や美術、骨董に造詣が深い。大正4年、細野家の食客となった魯山人(当時福田大観)を山代の旦那衆に紹介し、魯山人の作陶のきっかけを作った。昭和3年、魯山人の誘いを受けて星岡茶寮の顧問となり、鎌倉に居を移す。昭和36年、90歳で亡くなった。
 図版の硯、端渓硯ではない。しかし、当時、端渓硯の実体がわからず、この硯も端渓硯として伝世したことを思えば、やむをえないことである。この硯の納め方を観ると、細野燕臺の茶人としての心が窺える。因みに、上田桑鳩旧蔵品である。



No.44 鏡鑑の拓
             陳介祺、字は寿卿、またの字は酉生、号は伯潜。青銅器の★(ホ)を得たことから居室を「宝★(ホ)斎」と名付け、以後、?斎を号とした。山東省★(イ)県の人で、清の嘉慶18年(1813)に生まれ、光緒10年(1884)に没した。道光15年(1835)に挙人、道光25年(1845)には翰林院編修に至り、咸豊4年(1854)、42歳のときに官を辞し、故郷の★(イ)県に帰った。彼の事跡については、陸明君氏の『★(ホ)斎研究』(栄宝斎出版社)に詳しい。

 陸明君氏(「★(ホ)斎事略」『金石書学』第10号)は、陳介祺について「最も豊富な収蔵、最も正確な鑑定、最も優れた採拓、さらに古器物および銘文の考釈においても多くの独創的な見解をもち、清末の金石学における傑出した人物と呼ぶにふさわしい」と評価する。

 図版の拓は漢時代の鏡で、「★(ホ)斎蔵古」「二百竟斎蔵竟」印が押されている。1997年12月、江蘇廣陵古籍刻印社から発行された『★(ホ)斎蔵鏡』に同じ鏡の拓が「尚方鏡」として収録されている。同書の出版説明には、陳介祺の収蔵に古銅鏡170方あり、精拓108枚を友人に送ったものを、民国年間に丹徒の劉建叔が印行したことがある。それを再び影印したという。




No.43 張鳳翼
             張鳳翼、生年は明時代の嘉靖6年(1527)で卒年は万歴41年(1613)。江蘇蘇州の人。字は伯起、号は霊墟。『明史』巻287に、呉の人は張鳳翼、燕翼、献翼の兄弟は才能があり、「三張」と称したことを記録する。
 中西慶爾(『中国書道辞典』木耳社)は、「嘉靖四三年(1564)の挙人、その後しばしば会試に赴いて及第せず。?詞を好み、『紅払記』など多くの伝記を作り、戯曲家として一家をなしたが、最も書法に長じ、晩年書を鬻いでもって自ら給した」とい、『芸苑巵言』に、伯起は二王を学び退筆塚をなすとあることを紹介する。また、その著に、『文選纂注』『陽春六種』『占夢類考』『処実堂集』があるという。
 図版に示した書は、巻子を解いたもののようである。数カ所穴が空いているが、状態は良く、絹本に丁寧に書かれているのがわかる。落款には長洲張鳳翼とあり、「筆耕為養」、「張伯起」の印が押されている。ともに『中国書画家印鑑款識』(文物出版社)に見る。


No.42 遼の鍍金硯
     中国における考古学的発掘の成果には目を見はるものがあり、次々と新しい資料が提供されている。内蒙古における遼代の発掘には今まで知られていない文物が陸続と出土している。2002年5月には、北京の歴史博物館にて「契丹王朝―内蒙古遼代文物精華展」が催され、中国歴史博物館、内蒙古自治区文化庁編集による『契丹王朝―内蒙古遼代文物精華』(中国蔵学出版社)と題する豪華な図録が刊行された。
 いま、その内容を紹介するものではないが、展示品の中から?金に関するものに注目したい。?金は中国における表記であり、日本では鍍金として知られている。金メッキにて豪華なものである。前述の図録には、高翅?金銀冠、金花銀靴、金花銀枕、?金銅鐸、?金銀鞍飾のほか、椀、杯、盤、壷、鉢など多くのものがあった。
 図版の硯も同様に?金によるものである。小品ながら存在感があり、シンプルな美しさをもつ。硯首に5つの突起を持ち、遼代墓の壁画に描かれた硯に似る。

No.41 詩箋
             詩箋は詩を書くための紙であったが、書簡にも用いられている。長方形のものが一般的であるが、正方形に近いもの、横長のものなどがあり、縦に罫線が入るものや、模様を型押ししたもの、画家の作品を水印画にて刷ったものなどがある。
 宇野雪村(『文房古玩事典』柏書房)は、明代から作られたであろうが、盛行したのは清朝の中期以後であろうという。更に、清朝末期から中華民国にかけての製作店を紹介している。
<北京> 栄宝斎、松古堂、松華斎、淳菁閣、静文斎、宝晉斎、清秘閣、懿文斎、栄録堂、成興斎、倫池斎、文美斎、欣生堂
<上海> 朶雲軒、九華堂    <蘇州> 麗華堂    <杭州> 雲藍閣
その他に錦潤堂、翰墨斎、玉声堂をあげ、更に多くの地で作られていることも指摘している。その他の店名を、梅舒適氏(「詩箋」『文房曼荼羅』毎日新聞社)の著より探すと、汲古閣(北京)、松華斎(上海)、錦潤堂(北京)、秀華斎、停雲館、松茂室、文楷斎、佳蓮室(蘇州)、文翰斎、尚郷居、涵芬楼(北京)、思古軒、生雲堂(上海)、利亜(南京)、虚白斎、鴻雪斎、楽道堂がある。
 図版には製作店は不明であるが、金石の気溢れるものを示した。

No.40 衝方碑
 楊守敬(『平碑記』)は、「碑は★(さんずい+文)上の郭家村の田中に在り。近く聞く土人将に碑を推壊せりと。未だ確かなりや否やを識らず」という。陸増祥(『八瓊室金石補正』巻四)は、碑陰にふれるのみである。
 宇野雪村(『書の旅』二玄社)は、1979年10月、泰安にある岱廟にて「衝方碑」を見たとき、いつ★上から移されたのか、どうしてここにあるのかという疑問とともに、「遭えると思っていなかった碑石にめぐり会えた幸せを噛みしめた」という。なお、碑額の右(向かって左)に、光緒26年(1900)に碑亭に収めた記録を刻入している愚挙を嘆いている。
 『中国の書・史跡と博物館ガイド』(雄山閣)には西林昭一氏を団長とする旅行団の記録がまとめられている。同書によると、1987年8月、岱廟にて衝方碑をみているが、「碑陽は、刻字の内を胡粉で?めてあり、碑面の地のところは煤状の黒い粉を塗ってある」といい、点画内に補刀したところがみられることを指摘する。
 収録写真を見ると衝方碑に鉄枠が付きガラスが嵌められているのに気づいた。『書の旅』に掲載されている写真にはなかったものである。
No.39 画像円瓦当
 戦国時代の半瓦当は円瓦当へと発展する。半瓦当の製法が円瓦当を割っていることを考えると瓦当部分を円形に残すことは早くから考えられたであろう。また、建物の威容を高めるに、円形の瓦当を用いることも自然の成り行きと考える。
 動物の図案には馬、鹿、狼などがあり、樋口隆康氏(『始皇帝を掘る』学生社)が、「秦民族の祖先が遊牧民族であったことを、暗示しているという説もある」と説く。動物以外では花弁、雲紋などがある。
 画像の入る円瓦当において四神を用いたものは人気がある。四神とは玄武、朱雀、青龍、白虎で、それぞれ、亀(亀にまとわる蛇)、鳥(鳳凰)、龍、虎が図案化されている。四神は漢時代にまとめられた思想で、それぞれ北、南、東、西の方位が割り当てられ、黒、赤、青、白を象徴する。
 画像の入る瓦当は居室の装飾として求める人は多く、人気が高い。図版には「飛鴻延年瓦当」として知られる、珍しいものを掲げた。繆篆で「延年」2字あり、下に雁が飛翔する造形である。



No.38 トウ河緑石硯
 中国四大名硯の一つとして有名なトウ河緑石硯。長い間、その実体は明らかでなく、幻の硯といわれていた。近年、産出地の状況が明らかとなり、その実体も紹介されるようになった。   トウ河緑石は甘粛省南部のチベット族自治州所轄の卓尼県トウ硯村の拉馬岩で、トウ河の険しい沿岸から産出されている。現在も少量ながら採石される。
 山本濤石・山本粋園(「幻の“トウ河緑石”初探訪の旅−宋・明代坑洞窟調査 新発見」『中日交流硯作集』山東教育出版社)は採石地を訪ね、現地の状況を紹介し、柳公権の『論硯』にトウ河緑石硯の記述があり、唐時代から採石されたことを指摘する。王如実(「晩唐也有トウ河硯」『収蔵家』2003−1)は唐時代のトウ河緑石硯を紹介する。蔡鴻茹・王?(『中国名硯鑑賞』山東教育出版)は、秦鳳路沿辺安撫使として派遣された王韶はトウ河流域を6年間支配し、当地の奉納品を朝廷に奉納したことがあり、トウ河緑石硯を中原に伝え、南北文化交流の促進に一定の積極的な役割を果たしたという。王韶の伝記は『宋史』列伝第87にある。



No.37 烏金拓
 漆黒の拓本を「烏金拓」という。法帖の場合、平滑に磨かれた石に書が刻されており、擦拓による「烏金拓」のものが多い。拓法としては、全体にムラが出ないように拓し、拓したあと、その上を何度か拓すというものである。漆黒に浮かび上がる白い文字は明瞭であり、美しいものとなる。
 烏金拓の紹介に「茘(れい)青軒墨本」を取り上げた。この法帖は乾隆年間に成るもので、桐城の方観承撰、呉門の湯士超刻の四巻。宇野雪村(『法帖事典』雄山閣)は、細目が『鳴野山房彙刻帖目』にあると指摘する。
 容庚(『叢帖目』)は、帖目を示すとともに、張伯英は模刻、拓本とも美しく、「三希堂法帖」に拮抗すると述べることを紹介している。
 法帖の拓本には、彫るのに適する石が必要であり、細い線をも写し取る技術、それを彫る技術が必要である。紙、墨の選択に注意し、全体にムラなく拓することにより拓本ができる。その拓本を装幀して法帖が完成するのである。人力による作業であり、作成される部数にも限界がある。先人が苦労して完成した法帖、端本といえども大事にしたい。


No.36 艾葉緑
   張俊の『壽山石攷』は、「艾緑」の項にて「寿山郷月尾渓の辺に産す。即ち月尾緑、又艾葉緑と名づく」という。このことから月尾緑の一種として紹介する人は多い。
 しかし、方宗珪(『寿山石誌』福建人民出版社)は、南宋の梁克家(『三山志』)が、艾緑は寿山から10数里離れた五花石坑より産出しており、寿山郷内にある月尾から産出したものではないと指摘していることを紹介する。
 童辰翊(『中国印石図譜』上海遠東出版社)も、『三山志』にふれ、南宋時代に採掘され、清時代には絶えた。艾葉緑の産出地や特徴は明確ではなく、月尾緑を艾葉緑という人もいるという。さらに、伝世のものと、現在の月尾洞から産出したものとは異なることから、旧産と新産として区別している。
 艾葉緑は清時代に産出が絶えた。それだけに本物の艾葉緑の実態が謎に満ちてくるわけである。ただ、最近は石印材の図版も刊行され、今まで活字でしか知ることのできなかったものを見ることができるようになった。図版の右側は、『中国印石図譜』より、左側は『寿山石図鑑』(八龍書屋)より艾葉緑としたものである。

No.35 余清斎法帖

 呉廷、字は用卿、号は江村。新安(安徽省)の商人で、書画等の収集に富み、項元?とともに名が知られていた。呉廷の収集したものが楊明時によって刻され、「余清斎帖」として世に出た。楊明時は模勒の名手といわれており、収録内容とともに刻の素晴らしさから高い評価を得た。
 「余清斎帖」は数が非常に少なく、その端本すら目にすることが難しい。宇野雪村(『法帖事典』)は、「余清斎法帖」の端本にも出会えない無念さを述べている。いま伝えられている帖の装幀は8帖で、宇野雪村(『法帖事典』)、容庚(『叢帖目』)によって全容が明らかになった。
 「余清斎帖」の影印本には以下のものがある。1に、比田井天来蔵本をもとに山本竟山蔵本と照合して精拓を選び、書学院より大正13年に刊行されたもの。2に、中村不折蔵本を袖珍本として昭和13年に刊行されたもの。3に、昭和56年に書学院出版部より刊行されたものである。
 図版では蘇軾の「赤壁賦」を紹介する。

 

No.34 巻菱湖
 安永6年(1777)から天保14(1843)の人。名は大任、字は致遠。号は弘斎、菱湖。もとの姓は小山。生地の越後巻駅にちなんで巻と称した。菱湖の号は生地の近くにある鎧湖が菱形をしており、菱が多いことからつけられたといわれている。幼くして父を失い、19歳のとき、江戸に出てから亀田鵬斎の門に入り、詩人、書家として名を成した。文化、文政以後、江戸の書壇を市川米庵と二分した。
 巻菱湖は、文字の結構を古今の碑版法帖、墨帖の類から学び、用筆は、文化10年(1827)に上洛した折に観た近衛家秘蔵の賀知章「孝経」から影響を受けたといわれている。
 巻菱湖は市川米庵、貫名菘翁とともに幕末の三筆と称される。その門下には生方鼎斎、中沢雪城、荻原秋巌、大竹蒋塘等がおり、著書に『書法質疑』『十体源流』などがある。
 巻菱湖の書は流麗にして美しいが、線が細く、弱く見えるため、現代においては市川米庵、貫名菘翁程の人気はない。ただ、当時、評判を呼んでいたということは、結構法に熟知し、教授法が的確でわかりやすいことから人気を博したのであろう。

 

No.33 漢時代の円形三足硯
 前漢初期に天然板石硯を台にし、小石で墨の塊を粉にしていたものは円形板石に形成されて使用されるようになった。この後、円形板石に三足のつくものが出現した。
 円形三足硯の出土例は少なく、現在4点の出土報告を確認しているに過ぎない。河南省洛陽市一二工区六・一二・三号墓(前漢)、四川省簡陽県東渓公社園芸場墓(漢)より石硯が出土し、寧夏回族自治区呉忠県関馬湖漢墓からは陶製のものが出土している。円形板石硯、帯蓋円形三足石硯の出土数からみると、この形状の出土数は非常に少ない。早くから蓋付きのものに移行したためであろう。
洛陽市出土のものは硯面中央に小さな穴があり、硯側に陰刻模様、硯裏に鳥獣線刻があるという。円形板石硯に足が付き、それ自体に装飾を施すようになった。
 図版のものは全体に白く風化している。硯面には研墨石を置いた場所に黒い跡がついている。すなわち、長い年月、硯の上に研墨石を置いた状態で風化したため、研墨石の下は、当時のままなのである。この硯の硯側面、足の部分には陰刻線で木があり、足の間には幾何学模様が線刻されている。

 

No.32 空心磚
 磚は、土を低火度で焼いたものである。山本正之(『中国のタイル』INAX)は、「磚とは、粘土と砂を混ぜ、型枠の中で成型して天日で干した日干し煉瓦、素焼きのテラコッタ煉瓦、低火度還元焔焼成でいぶした焼成煉瓦などの総称です」という。
 磚には用途、形状に応じて数種類ある。ここでは「空心磚」についてみてみたい。建築史の専門家、田中淡氏(『中国のタイル』)の解説を紹介すると、「まさしく現代の空胴練瓦(hollow brick)の祖型であり、ただ、一材の寸法は現代のものとは比較にならないほど大きく、寸法も一定していない。成型の大量生産によったものではなく、空胴の内側に職工の指の圧痕がそのままのこっているものもあることからわかるように、大材の四面をつなぎ合わせてつくられたものである。特殊な装飾的要素をともなうとはいえ、コンクリート・ブロックに相通ずるすぐれた発明品といっていいだろう」と述べる。空心磚は墓室などの柱に用いられる。建築用材として大量生産されるため、表面の模様は、スタンプを用いている。
 図版では空心磚の四面を採拓している。空心磚の形状を把握できるであろう。

 

No.31 斗検封
 宇野雪村没後、1997年に「宇野雪村コレクション展」が開催されたとき、「斗検封」が展示されていた。
 『中国古代度量衡図集』(みすず書房)は「検封」を紹介している。永平の大司農の銘のある銅製一合枡の紹介では、把手の裏に四角い枠が突起しており、「検封」を嵌めこむことができることを解説する。この枡は後漢時代の永平三年(60)のものである。
「検封」について、同書では、「検封とは度量衡器具が政府当局の検定を受けたあとの封印であり、現代の計量管理部門が計量器具を検定したあとでおす検定印と使用者に交付する合格証に相当する」という。更に、検封の表に「官律所平」、裏に「鼓鋳為職」と陽文で鋳込まれているという。「官律所平」は「官律の平(おさ)むる所」と読み、政府当局の検定をへて、量の値が標準に合うことを意味していることも指摘している。
 図版に示したものは、台上に突出した上面に陽文で「官律所平」とある。左右の側面中央に円い孔が空き、裏面は空洞で文字はない。

 

No.30 唐時代の白磁多足硯
 白磁多足硯で有名なものに、大阪道明寺天満宮の什物が知られている。陶製の白磁硯で、国宝になっている。この硯は菅原道真遺愛硯としても有名である。ただ、注意しなければいけないことは、中国の製品であることと、元は硯面の下に足があったことである。
 唐時代の円形多足硯は硯面中央が突出し、周りは溝になっている。この形状を「辟雍」と称す。「辟雍」とは、もともと周の天子が創立した大学で、後漢以降の王朝も辟雍をもっていた。辟雍の周囲は水で囲まれていたことから、硯にもこの名称がつけられている。
 白磁多足硯は、その美しさから多くの人に愛蔵されている。大形のものは少なく、口径24センチのものに西安の碑林博物館、日本の出光美術館蔵品があり、小型のものに谷川徹三氏蔵硯(『文房四宝』別冊墨、第7号)、稲生平八氏蔵硯(『太陽』1979年5月号)などがある。これらの硯は被葬者とともに墓室に納められる明器である。従って、使用された跡はない。
 図版のものも明器としての白磁多足硯である。小型で硯面の下には獣足が付く。

 

No.29 梅花玉版箋
 明清時代には安徽宣州の宣紙が紙の主流となった。青檀の樹皮を主原料とし、沙田藁を加えて作られる。この時期、加工したさまざまな箋紙も作られている。特に乾隆年間には豪華な紙が作られている。
 「梅花玉版箋」は、清の康煕年間から作り始め、乾隆年間に流行った。樹皮紙の表面に粉蝋を塗り、泥金もしくは泥銀で氷梅紋(氷の亀裂を線描し、梅の花を散らしている)を描いている。紙の表面は光沢をもち、お洒落な紙である。この紙の右下には勾雲紋枠の中に隷書で「梅花玉版箋」と陽文で彫られた朱印が押されている。
 「梅花玉版箋」のような紙を蝋箋と総称している。村上三島(「紙」『文房具曼荼羅』毎日新聞社)は、「蝋箋という紙は墨が入らない紙で、墨が紙にのっかってるだけだから、この紙に新しい墨で書くと、ひびわれしたり、はがれてしまうことがある」という。劉?などはこのような紙を漆黒の墨を用いてゆったりと書いている。
 紙は使われて消費されるものであり、現代までに未使用で伝えられるものは少ない。この用紙などは、それ自体額に入れて飾っても遜色ないものである。

 

No.28 甲骨文字
甲骨文字は壊れやすい材質、小さく細く刻された文字のため採拓は難しい。馬子雲の『金石伝拓技法』から採拓の苦心をみてみたい。
上紙法では、上紙に白及水を用いるが、濃すぎず薄すぎず。打刷毛は強からず弱からず。強すぎると現物を破損し、軽すぎると文字の中に入らない。刷くのが軽すぎると密着せず、紙の繊維がすりこまれず、精拓とならない。亀甲は薄く、ひびがあり、少しの力で破砕しやすい。獣骨も朽ちたものは破損しやすいので拓すときには特別の注意が必要である。また、甲骨は土の中にあって固い土銹を生じ、甲骨より堅く文字にうまっており、取り去ることができず、えぐり取ることもできない。淡墨拓を用いると文字を微かに見いだせるという。選紙においては、以前は六吉綿連紙または扇料紙を用いたが、現在この種の紙はとても少ない。薄く細密なものを選ぶべきであるという。
図版のものは濃く拓され、文字が明瞭である。『墨』スペシャル、第21号に紹介されている今井凌雪氏収蔵の甲骨拓と同類のものである。

 

No.27 宋版
              漢籍に関心のある人にとり、「宋版」の語は心をくすぐり、一度は手にしてみたいと思うものである。宋版のもつ書香の気が人を引きつけるのであろう。
 宋代は印刷が盛んであった。『中国古代印刷史図冊』(文物出版社)は特徴を4点示している。1は、政府が印刷を重視したこと。2は、政府の印刷業が開放され、民間において活況を呈したこと。3に、印刷の量と種類が増え、歴史的に伝えられている書籍や当時の著作物が印刷されたこと。4に、印刷の技術が高まり、精細なものが作られたことである。
 図版は「宋版・佛本行集經巻」の4文字で、『洗硯』第1期第6輯(洗硯社)に貼り込まれている。同書、横川毅一郎氏の解説によると、佛本行集經は全60巻、隋の闍那崛多(525−600)の訳にて、釈尊の降誕より出家、成道に及ぶ一代の化義を説き、併せて仏弟子の帰入に関する因縁をも述べたものという。
 この宋版については、元祐6年の上板で、東福寺塔頭五院の一つであった三聖寺の旧蔵のものが民間に流出し、田口米舫氏、犬養木堂翁、楠瀬日年氏へと伝えられたものであり、くちなしの染め紙(黄槃紙)に印行されていることを述べている。

 

No.26 唐時代の瓦硯
 『新唐書』地理志に、カク州弘農郡が土貢(朝廷に献上する土地の産物)するものの中に「瓦硯」があったことを記載している。「瓦硯」と表記していることは、陶硯とは異なり、瓦の製作を硯に転用したことを物語っている。この硯は墨堂が適当に粗く、磨墨に適していたのであろう。
 宋の李之彦(『硯譜』)は「カク州澄泥は、唐人が硯を品第して第一と為す。今の人用いること罕れ」という。宋時代、カク州澄泥硯は高い評価を得ていた。同質のものではないであろうが、カク州で製作された硯が、唐時代においても評価されていたことを述べているとすると、前述した「瓦硯」を指すのではなかろうか。
澄泥硯は瓦製作の技術から生まれたといわれている。文献の面から見ると唐時代の「瓦硯」に注目が集まる。
 図版の硯は粗い土を焼いて作られている。箕形で墨堂は緩やかな斜面で多少反っている。裏には二長方足があり、唐時代の形状をもつ。裏の中央に「辛亥歳造記硯瓦」とある。辛亥は唐末の891年であろうか。この銘より、唐時代の「瓦硯」が確認できる。製作地等不明であるが、硯の歴史に有意な資料を提供するものである。

 

No.25 蝉翼拓(快雪堂法帖)
.j  拓本の中には蝉の羽のように薄く艶をもったものがある。これを蝉翼拓という。薄く拓されているが上品で美しい。蝉翼拓の解説に、故宮博物院収蔵の『真賞齋法帖』(火前本)を紹介する著録が多い。
 『快雪堂法帖』は馮銓撰集、劉光暘模勒で、崇禎14年(1641年)に完成したもので、原石は北京の北海公園内にある快雪堂に納められている。刻が成って最初に拓されたものを「タク拓」と称す。この拓について王壮弘(『帖学挙要』)は「白紙、淡墨、擦拓は甚だ精なり」という。
宇野雪村(『法帖字典』)は『快雪堂法帖』にふれるなかで、東京国立博物館に独孤僧本蘭亭序があるが、配列が異なる。刻としては優れていると指摘する。図版には家蔵の趙孟フ、蘭亭十三跋の部分を示したが、薄く拓され、碑面の剥落も見え、蝉の羽を通して見るような拓調で美しい。

 

No.24 鴨雄緑
.j  張俊の『壽山石攷』をみると、「トウ洋緑」の項にて「寿山郷より界を隔つ十里のトウ洋郷に産す、緑色閃通し、雄鴨の翼の如きものは佳。俗に鴨雄緑という。郷人風水に惑う。公に開鑿を禁ず。故に産を断つを致す」という。村上鬼空(『桃紅艾緑』)が「珍品中の珍品にして、其名今に存して實物は全く見るを得ず」といい、「今若し方五六分角のもの一顆あれば萬金も亦貴しとするに足らずといふに見るも以て其珍重の度を知るべきである」という。
 鴨雄緑が初めて図版で紹介されたのは、小林徳太郎著『図説石印材』であった。その解説には、「古来『幻の石』としてほとんど絶無と云われた珍品中の珍品が唯一顆存在していた」という。この印材は菅原石廬氏が収蔵しており、淡交社から刊行された『篆刻入門』では、谷干城旧蔵品として紹介されている。
 図版のものは、濃緑色のものであるが、太陽の光にかざすと斑紋の先端が蛍光色に光る。

 

No.23 偽大観帖
.j  「大観帖」は「淳化閣帖」の改訂を試みた類刻本と位置づけられている。類刻本とは「淳化閣帖」と同じ主旨で製作されたというものである。「淳化閣帖」の数は少なく、完成間もなく原石は火災に遭う。早くから同様のものが求められてであろう。「淳化閣帖」の類刻本としての「大観帖」や、多くの翻刻本が作られた。
 「大観帖」にも翻刻本がある。しかし、翻刻本にも数に限りがあるため、「大観帖」の偽物が出現するに至る。
宇野雪村(『法帖事典』)は、「清の曹氏翻刻本がある」という。ただ、楊震方(『碑帖叙録』)は、z石(浙江省)の曹氏翻刻本があるが、これは偽帖であると説く。張彦生(『善本碑帖録』)が述べる内容の中に楊震方のいう曹氏翻刻本を指すと思われるものがある。その内容は、偽刻太清楼大観帖があり、明の大宝賢堂帖の行書款記を用い、高さは大観帖とほぼ同じで、款首を改め、款尾を換えて大観帖としたものという。これは裁断の跡があり、判別はたやすいと指摘している。
 図版のものは巻末の款記より「大観帖」であることがわかるが、中味は「賢堂集古法帖」を用いている。

 

No.22 貫名菘翁
.j  貫名菘翁は安永7年(1778)から文久3年(1863)のひと。徳島の人で吉井直幸の二男で、姓は吉井であったが、文化3年27歳のとき、祖先の貫名を名乗る。名は苞、字は子善、君茂。号には海仙、海客、林屋、海屋、海叟、晩年には摘菘翁、菘翁、菘叟、別号に方竹山人、須静堂主人、三緘堂主人などがある。通称は政三郎、のち省吾、泰次郎と呼んだ。
 幼少のころ西宣行に書を学び、藩の画師矢野典博から狩野派を習った。17歳のころ、高野山にいた叔父を訪ね、空海の書を観た。このとき、空海の書に感化され、書に対する意識が高められた。のち、日本にある唐人の肉筆、日本の古人の書を観ることの大切さを説き、拓本から肉筆の姿を想像できるようにすべきことを指摘している。初めは、儒者として知られていたが、晩年には京都一の書家として高い評価を得た。市河米庵、巻菱湖とともに幕末の三筆として高く評価されている。
 菘翁は赤壁賦をよく書いていたようで刊行もされている。図版の折帖には菘翁の落款はないが、表紙題箋に「菘翁書」と書かれ、巻末に辻香烏の印が押されている。この書を観た故山添三樹氏は菘翁の書であることを明言し、木南卓一氏は帝塚山大学教養学部紀要第56号に「先賢遺墨(三)」と題した中にて紹介していただいた。菘翁の書の中で傑作の一つといえる。

 

No.21 漢時代の円形板石硯
.j  漢時代の初期は天然板石を用いていた。この形状はすぐに円形に加工される。円形に加工されたものの出土は多い。墨液を作る手順は天然板石硯で述べたとおりである。
 円形板石硯で注目したいことは厚さである。天然板石硯はそのままの状態で墨液を作る作業がなされたであろう。円形板石硯においても同様に使用していたと思われるが、後漢時代には薄いものが出土している。平壌府石巌里第九号墳より出土したものは直径13.2センチ、厚さ0.53センチであった。出土時、石板の下にやや大きめの木版と三個の金銅の熊足があったことにより、3熊足に支えられた板の上に薄い円形板石が載っていたと指摘されるものである。
 図版の右は厚さ3センチのもので、このままの状態、もしくは木に嵌めこんで使用保存されていたと考える。左は厚さ0.6センチのもので、前述したように板の上に設置されていたものと思われる。

 

No.20 硯 史
.j  高鳳翰、山東省の人。字は西園。号は南村、南阜、後尚左生などがある。「揚州八怪」の一人に挙げる場合がある。安徽省の歙県県丞となり、以後、地方官を歴任したが、廬見曾が乾隆2年(1737)に讒言を受けたとき、列坐して獄に繋がれた。この時、リュウマチが悪化し、右手の自由を失い、官を辞した。
 高鳳翰の生年については康煕22年(1683)と紹介されているが、没年について諸説ある。小林斗庵(「高鳳翰」『書道辞典』東京堂出版、昭和50年)は「乾隆8年(1743)」、中川憲一(「五言詩軸」『中国書道全集』平凡社、1988年)は「乾隆13年(1748)」、澤田雅弘(「高鳳翰」『書道基本用語詞典』中教出版、平成3年)は「乾隆14年(1749)」、鈴木洋保(「高鳳翰」『書道史年表事典』萱原書房、2005年)は、1741年という。
 高鳳翰は収集癖があり、硯などは千点余りも所蔵していた。その優品116面を選び、硯図に銘を左手で書き、板に刻して「硯史」と名付ける硯譜を企てた。原本の一部を見る機会を得たが、彩色も入り素晴らしいものであった。ただ、残念なことに高鳳翰は未完のまま没した。のち、原本を入手した王相により、王日申、呉煕載の模刻にて刊行されたのである。

 

No.19 秦封泥
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 北京の古玩市場に現れた秦封泥は真贋問題に発展した。その大部分を入手した路東之は西安の西北大学歴史博物館に鑑定を依頼した。鑑定の結果は新発見の資料として『西北大学学報』(1997年第1期)に紹介されている。これらの封泥は1995―1997年に陝西省西安市六村堡郷相家巷村出土といわれ、北京の他にマカオの収蔵家珍秦齋(蕭春源)も入手しており、上海博物館の孫慰祖氏も関心を寄せていた。
 2000年4月、中国社会科学院考古研究所漢長安城工作隊は相家巷遺址の調査と発掘を行い、この遺址が秦咸陽渭南宮苑北部に位置することを確認し、封泥が戦国晩期から秦にかけての堆積層から出土していることを確認した。このことから封泥の時代が明確となった。
 相家巷遺址出土の封泥について、孫慰祖氏(『新出相家巷秦封泥』藝文書院)は、「印文は秦官、職官、郡県名あわせて三百種以上にのぼり、その中で文献に記載のない官名は数十種に達し、近年なお新しい官名の封泥も確認されている」という。
 図版の右は「郡左邸印」で「九卿」の典客の官に属す印文で、新資料である。

 

No.18 元の人物硯(澄泥硯)
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 『中国名硯鑑賞』(山東教育出版社)で「元飲翰人物澄泥硯」を見たとき、造形のおもしろさに惹かれた。解説には、「この硯は、立っている人物の形式をしている。頭に双歯帽を被り、右手に扇を持ち、足に靴を履き、目を見張って口を開け、口が水池となり、腹が硯堂となっている」といい、さらに、「古硯の中で、人物でもって硯形を作るのは、極めて少ない。澄泥硯の中で更に希有である」と説く。この硯は徐世章が天津市芸術博物館に寄贈したものの一つである。
 図版のものは「元飲翰人物澄泥硯」と同型のものである。ただ、裏に「☆カク州法造/閏金硯子」印が押されている。同様の印を押しているものを『文物』(1964年第7期)に見るが、宋時代の挿手硯であった。☆カク州は河南省霊宝県にあたり、元が領土としたときに製作されたのであろう。

☆印は外字のためカタカナで表記しています。

 

No.17 嘉慶墨
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「御製銘園図墨」は嘉慶年間(1796―20)に造られた。64景あり、大内(故宮)、西苑(中南海、北海)、円明園から選んでいる。石谷風編『徽州墨模雕刻藝術』(黄山書社)には5組のセット墨を紹介している中に「御製銘園図墨」がある。同書をもとに紹介したい。
 これは清の内務府の造弁所が企画し、如意館の画家が描き、御書所の墨刻によりなり、造形、絵画、題字、彫刻、装コウに優れており、宮廷の御製集錦墨の代表作という。そして、「圓明三園は一八六〇年に英・仏連合軍に焼かれてしまって、今無になったが、このセットの墨模には圓明三園に関するさし絵があったため、圓明三園の園林建築の研究に対してとても珍しい史料となっている」と説いている。
 図版の墨は「鑑古堂」で、中南海同豫軒の後ろにあり、納められたであろう銅器の類が描かれている。なお、この墨は内藤湖南旧蔵として書き込まれた箱の表紙とともに伝わっている。半分ほど使用されており、内藤湖南がこの墨をもとに書をしたためていたことを想像すると楽しいものである。
 因みに、左には倣古墨を示した。

 

No.16 摩崖の拓
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 清朝考証学が盛んになると、文字史料に対する意識が高まった。鄭道昭の書は山東省の雲峯山、天柱山、太基山等の摩崖に刻されている。これらの拓本を求めるものは増えたが、山中の刻石のため、採拓は困難を極めた。
 採拓の困難さは、費用に反映される。楊守敬(『激素飛清閣平碑記』)は、拓本をとるための足場、人、紙や墨の費用を計算すると、数十余部拓すのに百金もかかり、拓す者は少ないという。しかし、拓本の価値が高まると、商品としての価値も高くなる。方若(『校碑随筆』)は、包世臣が著録で鄭書を評価したときには見ることのできなかった拓本が、清朝末期には多くの人が手にすることができるようになった、これは、土地の者が利益を得ようと日々刻石を探したことによると述べる。
 鄭道昭は山中の崖、岩などに書を残した。険しい道を歩くことなく書斎で鄭道昭の書を見ることができるのは拓本のおかげである。
「上遊天柱下息雲峯題字」は天柱山にある。

 

No.15 半瓦当
.j  半瓦当には、燕のものとともに、斉のものも有名である。山東省臨?県の故城跡より出土するもので、臨?は周時代における斉の国都であった。斉故城の半瓦当には戦国時代と前漢前期のものがあり、戦国時代のものが主となす。
 半瓦当の研究は関野雄『半瓦当の研究』にまとめられ、現代でも多くの人に注目されている。最近では、斉の半瓦当について、李発林の『斉故城瓦当』(文物出版社)がコンパクトにまとめている。同書より、半瓦当の製作方法について紹介したい。
 模様や文字のある瓦当の方法は先に木型を彫り(陽文)、木型から粘土による範を造り(陰文)焼き固める。範を平に置き上に灰を蒔き粘土を押さえ瓦当の生地を造る。半瓦当の範も円形であり、二つに分けられる。範に押さえた粘土の上に筒瓦を造る。筒瓦の製作方法には盤築法があり、輪状の粘土を積み上げ固めていく。外面には縄で叩いて縄文を残している。筒瓦が生乾きになると、縄弓もしくは刀、竹の類で半分に切り割るというものである。
 図版には樹木箭頭巻雲気丁紋(前漢)のものを掲げた。

 

No.14 漢時代の天然板石硯
.j  湖北省雲夢睡虎地より春秋戦国時代末、秦統一前の硯が出土した。扁平な自然石を加工している。また、同時に自然石を加工した小石も出土している。一般的に、台にする石を「硯」、墨を磨りつぶす小石を「研石」と称している。なお、同時に墨も1点出土した。硯の上に墨の塊を置き、研石を用いて墨を砕き、墨の粉体に水を加え、墨液を作ったのであろう。
漢時代初期においても同様のものが出土しており、現段階では初期の硯と位置づけられる。漢時代は中央集権国家であり、国家体制を機能させる文書行政が全国に広がっていた。文書行政を遂行するには筆記用具が必要となる。墨液を作る道具としての硯が普及するのであるが、初期は天然板石を台として小石で墨液を作っていた。
 図版の硯は、表面は平坦に磨かれ、裏は平坦であるが荒さが残る。研石は天然の小石で硯面に当たる部分は平面である。

 

No.13 撲拓について

 拓すものが平面でない場合、擦拓法を用いることができない。対象物に湿った紙を貼り付けたあと、綿の塊に布を被せたものに墨を含ませ、垂直に押し当てる方法を「撲拓」という。
 馬子雲(『金石伝拓技法』人民美術出版社)は南宋時代に「撲拓」が始められたと指摘している。以後、「擦拓」と「撲拓」が用いられる。図版では「五鳳二年刻石」の「擦拓」(上)と「撲拓」(下)を示した。
 書の資料には文字面が平面である石碑だけではなく、碑面が荒れた石碑、山の岩肌に刻された摩崖碑等の他、瓦、磚の類、青銅器等の金属、甲骨のように微細なものなどがある。これらのものを拓すには「撲拓」による。現代では平面のものも「撲拓」によって採拓されている。
 「撲拓」の作業は、1980年に開催された「中華人民共和国西安古代金石拓本と壁画展」の図録に毎日新聞編集委員の大橋久利氏が「中国拓本のできるまで」と題して紹介している。その他にも取拓の紹介や実技指導の書籍が多く出ている。

 

No.12 「田 黄」
.j  田黄は福健省福州市の北40キロの寿山郷の田黄坂周辺の田の中、川の付近から採取された。採石される場所により上坂、中坂、下坂、碓下の4つに分けられる。
 田黄は田から採取される黄色い石ということで名付けられたものであるが、同じ黄色いものでも、黄金黄田石、橘皮黄田石、熟栗黄田石、桂花黄田石、枇杷黄田石、桐油地田黄石などに分類される。また、田黄坂の上、中坂から採取される白いものを日本では田白、中国では白田石という。田黄に紅色が含まれるものは田紅(紅田)と称し、農夫が田の草を焼いた時に土中の田黄石が熱を受けて紅色を帯びたものはワイ(火へんに畏)紅田石という。その他の色では、淡灰色の灰田石、黄中に灰緑色または暗緑色の入る緑田(田緑)。黒い色のものは田黒(黒田)で黒色の強いものは烏田。田石に紅、黄、青等混じるものを花田石という。
 この他に、凍石系のものを田黄凍、外側が白く内側が黄色い銀裹金田石(銀包金)、外側に黒い皮のある黒皮田(烏鴉皮田黄石)、黒皮に灰、黄色が混じる蝦蟇皮田黄石などがある。
 寿山郷の水田からは硬田が採取され、硬田黄、銀裹金硬田、烏鴉皮硬田、硬白田と分類され、田を耕したときや、雨水によって露出するものを擱溜田という。

 

No.11 大観帖
 「大観帖」は「淳化閣帖」の改訂を試みた類刻本と位置づけられている。この法帖原石が太清楼に置かれたことから「太清楼帖」とも称されている。巻末の款記に「大観三年正月一日奉聖旨模勒上石」とあり、大観三年(1109)に完成したことがわかる。
 『宝刻叢編』巻1にある施宿大観帖総釈の序には、大観の始め、徽宗は淳化帖の板が破損しており、王著の標題に多くの誤りがあり、臨模も良くないので、新たに刻し直し、編成も変え、蔡京に題目を書かせて太清楼で制作したという。
 靖康二年(1127)、北宋は金に滅ぼされる。この時、大観帖原石は金に持ち去られた。開禧(1205-1207)以後、?場にて大観帖が入ってきた。この時、第三巻?亮帖の「亮」字が消されていた。これは金主の完顔亮の諱を避けたものである。以後、原石は不明となり、翻刻が出現する。明時代の翻刻は西東書房より影印されたことがある。
 図版(右)のものは「大観帖」第三巻の冒頭部分である。中に収められている?亮帖は標題に「亮」字が刻されているが、文中では刻されていない。書学書道史学会にて、明以前の翻刻として紹介したことがある。

 

No.10 内藤湖南
.j  内藤湖南(1866―1934)、名は虎次郎、字は炳卿で湖南は号である。秋田県鹿角市十和田毛馬内に生まれた。明治27年大阪朝日新聞に入り、明治40年京都帝国大学の東洋史担当として迎えられ、以後、教授となり東洋史学の基礎を築いた。杉村邦彦氏(『日本・中国・朝鮮 書道史年表字典』書学書道史学会)は、「清朝考証学の伝統をふまえつつ、西洋の近代史学の方法をも参考にして、歴史を構造的に把握するのに秀れていた」という。
 大正2年、癸丑の歳、京都と東京で蘭亭会が開催された。京都では4月13日に南禅寺天授庵で祭祀が行われ、12・13日に京都府立図書館で展覧会が催された。内藤湖南は発起人の一人として参加している。図版に示したものは木製の丸盆で、蘭亭序の一部「俯仰一世」が書かれ、「内藤虎」と署名している。なお、右上に「癸丑」、左下に「蘭亭」の焼き印がある。内藤湖南の書について杉村邦彦氏(前掲書)が、「晋唐を基調とする典雅な書は書巻の気にあふれている」というように、暖かい筆致で気品あふれる書である。

 

No.9 唐時代の歙石硯
.j  歙石硯は江西省ブ源県渓頭郷の龍尾山から産出する。唐宋時代、ブ源は歙州に属し、歙硯、歙州硯、龍尾硯、ブ源硯などと称されている。
 唐時代には端石硯とともに、歙石硯の作硯が始まった。宋の唐積(『歙州硯譜』)は、唐の開元年間(713−41)、猟人の葉氏は獣を逐い、長城里に至り、畳石が城塁状になっているのを見た。石はつやがあって美しく、持ち帰って硯にすると潤いは端渓よりも良かったという。
 歙石はいくつかの場所より採石されるが、唐時代に採石されたのは龍尾山(羅紋山)の眉子坑であった。胡中泰氏(『龍尾硯』江西教育出版社)は当時の硯坑の直径は8メートル、洞の深さは4メートルほど、芙蓉渓に沿って30メートル前後という。唐宋時代に採掘されたが、元時代には採石されていない。1984年、再び採掘された。
 図版のものは箕形で箕形陶硯を模して造られている。墨堂は急斜面で、裏に台形状の足が付く。眉子坑のもので眉紋が出ている。

 

No.8 硯  拓
.jpg  図版の拓本は徐世章旧蔵硯で天津博物館に収蔵されている「清高兆赤壁端硯」である。端石の塊を彫刻して山水を彫りだし、月を水池にしている。裏に彫られている高兆は、字が雲容、号は固斎。呉秉鈞も清人で貞隠先生と称した。
 徐世章(1889―1954)、字は端甫、またの字叔子、号は濠園。天津の人で民国時代の総統徐世昌の弟である。収蔵家として有名であった。没後、収蔵品は国に寄贈され、天津市芸術博物館に納められた。古硯についてみると964面あり、『天津市芸術博物館蔵硯』(文物出版社)に一部が紹介されている。また、硯拓の影印が『中国歴代名硯拓譜』(天津人民出版社)として刊行されている。
 徐世章の人となりは『徐世章捐献文物清品選』(天津人民美術出版社)の解説に詳しい。
2004年11月竣工した天津博物館は天津歴史博物館、天津民族博物館、天津市芸術博物館が統合され、文物の収蔵、保護、教育、研究施設としての役割をもつ。同博物館は河西区平江道と友誼路の交差点に位置し、白鳥が羽を広げたようなデザインの巨大建造物で、日本の高松伸氏が建設設計を担当している。

 

No.7 燕半瓦當
.jpg  瓦の起源について、樋口隆康氏(『始皇帝を掘る』学生社)は、「そもそも、中国で、瓦が使われだしたのは、西周時代である。陝西省岐山県鳳雛村周原の西周中晩期の建物から出土した少量の板瓦が古い例であり、建物の屋根の棟を覆うように並べたらしい」という。板瓦から平瓦、平瓦から丸瓦への変化について関野貞(「瓦」『考古学講座』第一号)は、「平瓦を仰向けに並べ、更に同じ平瓦を其上に俯向けに伏せたのが、後に此俯向け瓦が丸瓦に発達したのであろう」と説き、丸瓦の端から雨水が入らぬように塞いだことにより半円形の部分ができたという。これが半瓦当である。
 燕は戦国七雄の一で、下都(昌県)から半瓦当が出土している。瓦当の質は比較的粗く、中に砂礫や雲母が混じっているものがある。模様としては饕餐文、双龍文、双獣文、凸字様文などがある。力強い造形で、当時、建物にこの瓦が並んでいた状況を想像するに、人を近づけさせないような空気を醸し出していたと考えられる。

 

No.6 牧牛澄泥硯

 澄泥硯の実体については諸説あり、明確になっていない部分がある。故宮博物院には「牧牛澄泥硯」があり、『中華古硯』(江蘇古籍出版社)に紹介されている。四肢は折り曲げて伏しており、背中の部分が墨堂となる。全体は黒く、墨堂は中央に凹み、紅色に褐色の斑点がある。
 同型の硯は首都博物館にも収蔵展示されており見ることができる。この他、日本でも見ることがあり、明時代に流行った硯式であったことがわかる。図版に示したものも同型のものである。同じように全体が黒く、墨堂は赤みを帯び、褐色の点がある。牛の伏す形状も同じである。澄泥硯の位置づけが明確でなく、陶硯とすべきかも知れないが、いまは澄泥硯として位置づけておく。
 因みに、首都博物館は2006年2月に新装オープンした。地下鉄木犀地を東に歩いて5分ほどのところにある。その広さ、内容とも素晴らしいもので全てを見るのに1日でも回りきれないものである。北京の新しい観光スポットとして注目されるであろう。

 

No.5 田 黄
 田黄は福健省福州市の北40キロの寿山郷より産出した。明以前は「黄石」と称されており、明末から印材として注目された。顧恵敏(『印章鑑賞与収蔵』上海書店出版社)は、清初には寿山田黄、坑頭水晶凍、月洋芙蓉を、鑑賞家が重視し、乾隆帝が皇帝印に田黄を用いてから印石の王座となるという。光緒年間には田黄、鶏血、芙蓉石は印石三宝として尊ばれた(方宗珪『寿山石全書』八龍書屋)。1930年代、寿山、青田のみならず、多くの地域において採石され、石印材に関する著録も刊行されるようになる。田黄のみが注目されている中で、河西弘(『印石箚記』)は、田黄、鶏血、芙蓉以外にも見るものがあると指摘し、村木鬼空(『桃紅艾緑』)は、田黄の価格の高いことのみに注目しており、田黄の駄石よりも素晴らしいものがあると述べる。これらの指摘は自らが印を彫る石印材において、評価の高い田黄を求める人が多く、高価なものになっていったことを示すものである。
 現在、田黄は掘り尽くされ、一両の田黄は一両の金といわれていたものが、1980年代、三両の金、1990年代では十両の金と指摘されるものである(顧恵敏『印章鑑賞与収蔵』)。ゆえに、田黄を印材に加工することに注意が払われ、鈕を彫るものは少なく、方形、天然形が多い。

 

No.4 石鼓文
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 唐時代の初期、陝西省鳳翔府天興県南方20里、陳倉で発見され、鼓に似ていることから名付けられた。10鼓あり、「陳倉十碣」と称したり、四言詩で狩猟を歌っていることから「猟碣」ともいわれる。刻年は戦国秦の中期との指摘が多い。
 石鼓は花崗岩製で、破損が激しく、北宋の欧陽修(『集古録跋尾』)は判読できる文字は465字という。現代では更に大きく減り、新拓本をもとにかぞえると250字ほどである。
 明時代の安国(1481―1534)は無錫の富豪で、古文物の収蔵家として有名であった。石鼓文に対して強い関心をもち、旧拓本十種を得て十鼓斎と号している。その中に北宋拓の「先鋒本」「中権本」「後勁本」があった。この三本は三井高堅氏が入手し、三井聴氷閣(ていひょうかく)蔵本として三井文庫に収められている。ちなみに、「先鋒本」は「大正10年に四万二千円で入手しているが、当時千円で総檜造りの豪邸が建てられたという話であるから、まさに想像を絶する破格である」(樋口一貴「三井高堅と聴氷閣拓本コレクションの形成」『聴氷閣旧蔵碑拓名帖撰』三井文庫)と指摘されている。
 石鼓文は北京の故宮博物院に収蔵されており、ケースに収めて展示されている。

 

No.3 甲骨文字
.jpg  甲は亀甲、おもに腹甲を用い、骨は獣骨を指し、おもに牛骨が用いられている。これらに文字を刻してあるものを「甲骨文」という。
甲骨文字発見のエピソードとして、光緒25年(1899)、王懿栄がマラリアの薬とされていた「龍骨」に文字が刻されていることに気づき、漢方薬店から「龍骨」を買い集め、劉鶚と検討したことによるといわれているが、事実は異なる。阿辻哲次氏(『図説漢字の歴史』大修館書店)は、山東省出身の骨董商である范維卿などが、河南で甲骨を入手し、王懿栄等の青銅器収集家のところへ持ち込んだのが真相のようであったという。
 甲骨文字が世に知られるようになったのは、光緒29年(1903)、劉鶚が甲骨文字の拓本を取り『鉄雲蔵亀』として刊行したことによる。この後、古代文物収蔵家に注目され、甲骨文字の学問的価値が高まった。
 殷墟以前の甲骨文字が、1950年、河南省鄭州市から発見され、1977年には、陝西省周原遺跡から周代の甲骨文字が発見されている。今後とも中国の大地から多くの文物が出土し、甲骨文字の実体が明らかになっていくであろう。

 

No.2 唐時代のカク州石硯」 ※カクはノツ+寸+虎
 唐時代、墨は現代と同じように固形で、硯面に水を入れて磨墨していた。当時の硯は、陶磁器やさまざまな石が用いられていた。各地で硯に適する石が探されていたであろう。端石、歙石がよく知られているが、その他に紅糸石や採石地不明の石硯が紹介されている。
 図版に紹介するものは、唐時代の端石硯と思い入手したものである。作硯は『中華古硯』に紹介されている端石硯に形状は似る。頭部は弧を描き、硯側は少し絞られ後ろに広がる。硯面は中央に凹みながら上部左右に折れ目をつける。裏は側面との角は鋭く、平坦な部分をもつ。後方には台形状の足が1対付き、全体に薄造りで、当時の陶硯に似る。
 最近、中国では硯を紹介する図録が多く出版されるようになった。その中の1つに、黄海涛・柴俊星編著『開悟堂聊硯』(大象出版社、2006年3月)がある。同書にカク州石硯数点採録され、1点は本図版と同じ硯式、硯相をしている。同書の解説には、端硯と混同しやすいことを指摘しているが、図版の硯を子細にみると、紫色と白色が層をなすところがあり、端石硯とは異なることがわかる。同書により、唐時代のカク州石硯であることが判明したが、珍しいものである。


No.1 「擦拓について」
拓本をとる方法に「擦拓」がある。拓本をとる対象物に、水で湿らした紙を密着させると、刻された文字の部分が食い込む。この状態で、毛氈を木の棒に巻き、墨を染みこませて表面を擦ると、食い込んでいる文字の部分には墨が乗らず、白い文字が浮かび上がる。図版に示したものは擦拓による集字聖教序である。
  1900年頃、敦煌莫高窟から太宗皇帝「温泉銘」の拓本が出土した。末尾に「永徽四年八月」(西暦653年)と記されており、唐時代初期以前に拓されたことが知られる。この拓本は「擦拓」によるものであった。また、同時に出土した欧陽詢の「化度寺碑」、柳公権の「金剛経」の拓本も「擦拓」によるものであった。
  「擦拓」は拓法として唐時代には確立し、宋時代以降も多く用いられている。採拓時間は短く、多くの拓を取ることのできる技法は、印刷技術の一として位置づけられ、多くの人に求められたであろう。参考に集字聖教序の擦拓を紹介する。
なお、「擦拓」は対象物の表面が平坦で滑らかでなければ拓すことができない。摩崖に刻されたものなどは「撲拓」によらねばならない。


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