中国には憎き敵の肉を食らって、憎しみや恨みを晴らすという発想が春秋戦国時代の『国語(晋語四)』や『戦国策(中山策)』に見られ、その後にも『漢書』巻九九、王莽伝下に、「王莽は杜呉という商人に殺されて八つ裂きにされ、その首級は更始帝居城宛に晒され、なかには舌を切り取って食べた者もいた」とあります。また『資治通鑑』唐記22、神功元年の条に、「武則天の密告制度・告密の門の酷使であった来俊臣は多くの恨みを買い、同僚と政敵に密告され断首刑にされるや群集は彼の死体に飛びかかり、八つ裂きにしてその肉を食らった」とあります。
憎まれて食べられた人物が秦檜の他にもう一人います。それは秦の始皇帝です。その理由は山東省曲阜「孔府があり、孔子一族が住んでいました。儒教は漢代以降、国教としたことから「孔府」は聖地であり、明清時代には「当朝一品官」の最高官位を授かりました。
孔府近くには孔子廟があり、皇帝、貴族、顕官が訪れて宴会を催します。彼らは料理人を帯同して来るので料理技術の交流とともに独自の料理「孔府菜」が生まれました。北京・瑠璃廠角にある「孔膳堂飯荘」は国内外の美食家によく知られています。その孔府菜のなかに『中国名菜精粋』にも掲載される「焼秦皇魚骨」という料理があります。桂魚の背骨を取って二枚におろし、その魚肉に切れ込みを入れ、そこに長細く切った水発魚骨を挟んで油で揚げ、さらに蒸籠蒸しにする料理です。水発魚骨とは乾燥したチョウザメの骨で、中国語では「鱘鰉」と書きますが、この発音は「秦皇」に近いのです。
孔子の子孫は秦始皇帝が行った焚書坑儒を憎み、第九世子孫孔鲥は『尚書』、『木札』、『論語』などの経典書籍をこっそりと孔府の故居に隠し持ったことから、当時の料理人は魚骨を秦始皇帝に見立て、切って揚げて蒸して食らって、焚書坑儒の恨みを今に晴らす料理を考え付いたのです。
秦檜が死んだのは今から965年前ですが、始皇帝が死んでからは実に2230年もの歳月が過ぎています。それでも尚、多くの中国人の恨みを買っていると思うと、つくづく人さまから恨まれないように気をつけたいものです。