水清ければ大魚なし、または「水清ければ魚住まず」とも言います。「水が清く澄み過ぎると、魚の餌もないし魚が隠れることも出来ず棲みつかない」という意味です。続いて「察政(厳しい政事)は下の和を得られず」とあります。解釈としては、あまりにも清廉潔白すぎると、却って周りの人から親しまれず孤立してしまうという例えです。ここから規則やルールが厳し過ぎると息苦しくなるので、許容範囲の寛容さも必要であるという教えです。出典は「後漢書 班梁列傳」で、後漢時代の斑超[はん ちょう、32年〜102年(建武9年〜永元14年)]という人物の故事です。
斑超 字は仲升、右扶風安陵県の人。封号
は定遠侯。歴史家一家に生まれたが武人、
将軍としての成功を望み、西域(現・新疆
ウイグル自治区)から北匈奴、クシャーナ
朝を追い後漢の勢力を広げた。その後、西
域都護として31年間に及び西域の統括を保
持、西域諸450余国を後漢に帰属させた。
100年(永元12年)、故郷の漢土が懐かしく
この故事は任務を終えて帰国した時、後任者である任尚から西域統括の心構えを聞かれときの言葉とされ、斑超の返答として、
超曰、君性嚴急。水清無大魚。宜蕩佚簡
易。
超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大
るべし
とあります。
次号ではこの解釈を通して斑超が部下を激励した言葉
「不入虎穴、焉得虎子(虎穴に入らずんば虎児を得ず)」
によって活気づいた部下が大きな働きを行い、後漢と班超の勇名は西域全土にまで広まったエピソードに触れます。