インド仏教の中心地だったブッダガヤ近郊のナーランダーに到着するまで実に四年近くかかっています。『慈恩伝』には当時の心境を、
「もし天竺に至らざれば終に一歩も東帰せず」
と記しています。
玄奘は北インドから中インドへ、盗賊に襲われ、生命の危険な目に遭いながらもインド各地の仏蹟を巡礼しつつ資料蒐集に勤めました。帰路もカシュガルから古くは西域南道と呼ばれ、マルコ・ポーロも通ったといわれる伝統のタクラマカン砂漠の南縁を通り、険しい山を越え、出国から16年を経た貞観19年(645)1月5日、長安に通ずる運河に一隻の船があり、そこにはうず高く積まれた荷物に囲まれ、前後18年、往復3万キロという難行ののちに帰国した玄奘の姿がありました。そして同月7日、長安の太守、房玄齢らは玄奘が持ち帰った多数の経典・仏像を運河から馬22頭を使って都亭駅に移し、翌日、朱雀門南に陳列展示したとされます。
太宗に続き、高宗にも厚く信任された玄奘は持ち帰った膨大な経典を漢語に翻訳する画期的な一大翻訳事業に自己の余生全てを情熱と智慧を持って全身全霊を捧げ、翻訳した経典は75部1335巻にのぼります。龍朔3年(663)10月23日、62歳の玄奘はついに『大般若蜜多經』全600巻の」翻訳を完成させますが、全精力を使い果たした玄奘は「私が死んだら葬儀は質素を旨とし、屍体は草筵に包んで山間の僻地に捨てる」よう言い残します。
玄奘の没後、遺骨は長安南にある興教寺に建てられた舎利塔に収められました。ただ、唐朝末期の「黄巣の乱」の時にこの塔は破壊され、遺骨は持ち去られました。現存する舎利塔は乱後に旧様式により再建されたもので、玄奘の舎利塔と脇に建つ玄奘二人の弟子の舎利塔は2014年にシルクロード「長安-天山回廊」の交易路網構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。