【鬼】VOL.1
●あんまりガンガンぶつけられてもね〜。
この原稿をお読みいただく頃はすっかり節分で、鬼に扮したお父さん退治に恐れおののている方もいらっしゃることと思います。節分といいますと豆まきですが、この風習は室町時代、明代の中国で行なった豆打ちの風習が伝わったものです。庶民が「鬼は外、福は内」と掛け声とともに豆をまいたのは江戸時代になってからと言われています。現在では炒り豆を投げつけられ、必至に逃げ惑うイメージのある鬼は人の形をしていますが、紀元前、中国★★(せんぎょく)皇帝の神話にもあるように、もともと中国の鬼は死霊を意味する邪悪な存在でした。その後陰陽五行の思想から、自分が住んでいる中央を黄色とし、それ以外には野蛮なもの、つまり鬼の住む場所としました。北を黒、南を赤、東を青、西を白に見立てた四匹の鬼が住む方角としたのです。
よく「鬼門」と言いますが、この言葉も中国から発生したものです。中国の歴代皇帝は東北方面からの騎馬民族や寒風に脅かされ続けたため、この方角を外敵や報いのやってくる方角として忌み嫌い、北東、つまり丑寅の方角を鬼門としたのです。今では縁起の悪い場所や、ときには人に対しても「あそこ(あの人)は鬼門なんだよ。」などと言う人もいるようです。
日本の鬼は「隠れる」の「おん(隠)」がなまって「おに(鬼)」になったといわれています。神々が住み、不老不死の霊薬が実るとされる蓬莱の国からきた鬼は、日本に伝わったとされる奈良時代においてもまだ鬼は死霊だと考えられていましたが、次第に鬼は人間を喰う恐ろしい妖怪だという考え方に変わり、そしてその姿を変えてきました。「日本霊異記」には人を喰う鬼の話が残されています。また奈良時代には仏教の影響を受け、仏教六道の一つである餓鬼道に住む亡者・餓鬼や疫鬼が現れたり、仏教の羅刹や夜叉などの悪神と日本の邪神が同化した鬼も登場するようになりました。
さらに「日本書記」には「鬼神(あしきかみ)」「邪鬼(あしきもの)」「姦鬼(かしましきおに)」が、「出雲風土記」には人を食べる一つ目の鬼が、平安時代の「伊勢物語」には女を喰う鬼の話が、鎌倉時代の「今昔物語」や「宇治拾遺物語」には地獄の赤鬼、青鬼、牛鬼、馬鬼などが登場するように、日本では鬼はその時代によってかなり大きな変化を見せるようになりました。
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