【温泉】VOL.1
●華清池と楊貴妃像
クレオパトラ、楊貴妃、小野小町と言えば世界三大美女と称され、それは誰もが知っているところです。そのなかで中日を代表する伝説の美女、楊(玉環:719年生)貴妃と小野小町(809
or 901年生)を結ぶものは何か、皆さんはご存知でしょうか。彼女たちに共通するキーワード、それは温泉なのです。
玄宗皇帝が楊貴妃とラブロマンスを繰り広げた西安・華清池には、今も4つの風呂址(湯元)があり、温度は43度、一時間の湧出量は約125トンもあります。
「驪山温泉洗手処」では湧き出た温泉が関節炎や皮膚病などに効果があることから、多くの観光客がお湯に手を浸けたり、なかには頭を洗う人がいるほど、その効能に期待を寄せています。
さて玄宗は毎年秋10月から翌年春までの間、保養所であるこの華清宮まで大行列の家臣と共に楊貴妃を連れてきました。温泉に入り、歌舞を観賞し、音曲を楽しみ、まさに酒楽・歓楽、わが世の春を満喫しました。白楽天(居易)の「長恨歌」は二人の愛を表現すると同時に、贅沢を極めた二人の生活ぶりをも詠んでいます。
しかしながら玄宗皇帝のあまりにも度の過ぎた楊貴妃への寵愛は、やがて肝心の政治までもがおろそかになってしまいます。ついには玄宗皇帝の腹心・安禄山によって乱を起こされてしまいます。そのとき72歳になっていた玄宗皇帝はなす術もなく38歳の楊貴妃を連れ、その日の早朝に都・長安を後にし、ついに没落したのでした。
一方六歌仙、三六歌仙にも選ばれた平安時代屈指の女流歌人・小野小町に関しては、京都から東北に霊湯を探しながら向かう道中、病に倒れたため止むなく立ち寄った山形県(現)で、小野川温泉を発見し、そこで病を癒したという伝説が残っています。小野小町は絶世の美女だけに、言い寄る男も大勢いましたが、そのなかでもとくに有名なのは深草少将であり、能の「通い小町」の題材にもなりました。
深草少将から愛を告白された小野小町は困惑し、「百夜通えば意に従う」と答えました。それを聞いて有頂天になった深草少将は、九十九夜目まで雨の日も風の日も通いつめました。しかし百日目の夜、激しい雨による森子川氾濫で、橋とともに流され亡くなったそうです。悲しみに暮れた小町は淋しい老後を過ごしました。
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