敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【掃晴娘(てるてる坊主)】VOL.1


●ご存じてるてる坊主

 昔々、北京にいた切り紙が得意な晴娘という美しい少女は、人を遣わして買い求められるほど有名だったそうです。ある日、大雨の主「東海龍王」が北京城内を大雨で溢れさせ、人々を大いに苦しめます。晴娘が天に向かって祈願したところ、妃にならなければ北京を水没させると脅され、人々を救うため晴娘は承諾し、ようやく天気が回復したそうです。
 この世を去った晴娘を偲び、人々は雨が降り続くと娘達に人を模った切り紙を作り、門に掛けるようにしたそうです。この紙人形は「雲掃人形」や「掃晴娘」と呼ばれ、「掛掃晴娘」物語という名称で『北京伝統文化便覧』に収載されています。その後、この話は平安期の日本にも伝わったとされています。当時の日本は農耕民族ですから、雨が降るか降らないかは死活問題で、非常に大きな意味があったと思われます。
 このストーリーを読んですぐに矛盾に気付かれた方は中国史通です。なぜなら北京が統一王朝の首都となるのはフビライ率いるモンゴル王朝「元」が最初ですが、このとき、日本は鎌倉から南北朝時代となり、時代が符合しません。それより前に中国の首都が北京にあったのは、紀元前にまで遡って、春秋戦国時代「燕」になってしまいます。
 ただ、『帝城景物略』には「雨文、以白紙作婦人首、剪紅緑衣之、以?箒苗縛小箒、令携之、竿懸簷際、曰掃晴娘(女の子をかたどった白い紙の人形に赤と緑の着物を着せ、稲の穂でつくったほうきを持たせて軒に吊るし、雲をほうきで払って青空をもたらしてくれる掃晴娘)」とあり、前述の内容とは照合できます。
 日本では「日式掃晴娘」は名称が「照法師」となりますが、その後「てれてれ坊主」、「てりてり法師」、「日和坊主」とも呼ばれ男性扱いになりました。実際に雨よけのおまじないとして飾られるようになったのは江戸時代中期で、『嬉遊笑覧』には「晴れたら瞳を書き入れて神酒を供え、川に流す」と記されています。
 次号、てるてる坊主神話と、かの有名なてるてる坊主の歌について言及してみたいと思います。