敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【西遊記】VOL.2


●敦煌洞窟内(9世紀頃)に残されたの「西遊記」の壁画

 清代になると、作者は長春真人丘処機(丘長春)と信じられ、イギリスのバプテスト会の宣教師であったT・リチャード(1845年〜1919年)による初の英訳本(上海:1919年)においても作者名は丘長春としていました。呉承恩作者説は、魯迅が『中国小説史略(1924年)』や「中国小説的歴史的変遷」などでも提唱していますが、これは比較的新しい説です。それ以降は、呉承恩が作者として扱われることも多くなっていますが、西遊記に関してはあまりにも繁本が多く、未だに確たる証拠はありません。
 さて、玄奘という僧侶は実在したのかという疑問ですが、実は玄奘の本名は陳★(ちんい)といい、玄奘は法名です。彼は河南省に生まれますが、15歳で受験資格を得る僧侶を認定する国家試験を、10歳程度で合格し、洛陽・浄土寺で修行を積みました。その後、長安に住み、戦乱を逃れるために成都へ、そして長安に戻り、そこでインドの僧侶が持っていた経に衝撃を受けます。その当時、唐には経典が少なかったことから、インドで修行をし、経典を持ち帰るため、貞観元年(627年)に27歳の玄蔵は長安を旅立ったとされています。
 筆者は西遊記を著したとされる呉承恩が度重なる科挙試験に不合格し、生活や境遇は貧困を極めたことから、全100巻のなかに当時の社会や生活、また希望や苦しみを伝えるため、役人たちを妖怪に見立てて痛烈な風刺をしたのではないかと思っています。

★…偉の人偏をこざと偏(ネ)