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【馬耳東風】VOL.2


●唯一現存する李白の真筆「上陽台帖」(北京故宮博物院所蔵)

 李白の詩の一節「東風射馬耳」は唐王朝の六代目皇帝、玄宗の治世(712〜756年)の後期に当たる749年に作られたとされています。歴代王朝屈指の賢帝玄宗皇帝は、息子の妃・楊太真を貴妃(楊貴妃)にしてから政治を忘れて寵愛します。755年には安禄山の乱を招き、唐王朝の土台をゆるがすことになるのです。
 この盛唐時代には、李白のほかに、杜甫、韓愈、白居易など多くの詩人、文人を輩出しましたが、彼らは唐王朝の中級官僚に出世しました。しかし、李白は詩人として玄宗から高く才能を評価されましたが、結局は下級官僚に終わりました。豪放磊落な李白の行動は、俗人の常識を超えており、廷臣から疎まれ、希望する官職を得られなかったということでしょう。
 しかしながら、杜甫も蘇東坡も、最後は官を辞しています。詩才のある詩人ほど官職の立場では成功しなかったのです。
 「東風射馬耳」の詩は、李白と同様に不遇を受けていた友人・王十二から贈られた贈詩『夜独酌有懐』に対する励ましの答詩だったとする説があります。李白も権謀術数が渦巻く宮廷の世界では、自らの詩の才能に見合った官職を得られず、「馬耳東風」は自らの不遇を嘆く集大成とも言うべきだったようです。
 生涯のほとんどを流浪の立場を選んだ李白は、杜甫の詩聖に対して詩仙と称されるまでになりますが、酒仙とも称された李白の人生は、ある意味では羨ましかったとも言えます。


 李白の詩の一節「東風射馬耳」は唐王朝の六代目皇帝、玄宗の治世(712〜756年)の後期に当たる749年に作られたとされています。歴代王朝屈指の賢帝玄宗皇帝は、息子の妃・楊太真を貴妃(楊貴妃)にしてから政治を忘れて寵愛します。755年には安禄山の乱を招き、唐王朝の土台をゆるがすことになるのです。
 この盛唐時代には、李白のほかに、杜甫、韓愈、白居易など多くの詩人、文人を輩出しましたが、彼らは唐王朝の中級官僚に出世しました。しかし、李白は詩人として玄宗から高く才能を評価されましたが、結局は下級官僚に終わりました。豪放磊落な李白の行動は、俗人の常識を超えており、廷臣から疎まれ、希望する官職を得られなかったということでしょう。
 しかしながら、杜甫も蘇東坡も、最後は官を辞しています。詩才のある詩人ほど官職の立場では成功しなかったのです。
 「東風射馬耳」の詩は、李白と同様に不遇を受けていた友人・王十二から贈られた贈詩『夜独酌有懐』に対する励ましの答詩だったとする説があります。李白も権謀術数が渦巻く宮廷の世界では、自らの詩の才能に見合った官職を得られず、「馬耳東風」は自らの不遇を嘆く集大成とも言うべきだったようです。
 生涯のほとんどを流浪の立場を選んだ李白は、杜甫の詩聖に対して詩仙と称されるまでになりますが、酒仙とも称された李白の人生は、ある意味では羨ましかったとも言えます。