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【伯夷叔斉】VOL.1


●伯夷叔斉画

 中国前漢・武帝の時代に司馬遷が書いた「太史公書(史記)」は、『本紀(本編)』では王朝の盛衰を、つまり政権の座にあった帝王たちの伝記を描いていますが、『列伝』編では各時代に活躍した人物の伝記を70巻にまとめて描いています。その列伝には志半ばにして敗れ去った者が多く取り上げられているため、史記の面白さは、実は本紀よりも列伝にあると主張される方もいるほどです。
 この列伝の冒頭に、司馬遷の深刻な考え方を象徴的に表した「伯夷列伝」という、ある兄弟の人名を使った表題があります。「伯夷列伝」は、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)という、悲劇的な生涯を遂げた賢兄弟の故事として取り上げられているのですが、この伯夷叔斉は、史記全体を通じて「天道是非」という考えを表わしており、とても意義深い内容になっています。
 もう一つ、杜甫詩「酔時歌」には、孔子と大盗賊だった盗跖(とうせき)という、相反する二人を並べた「孔丘盗跖」という四字熟語があり、武帝により儒教が国教化されつつあった時代の故事成語です。
 話を戻しますと、伯夷叔斉は、『論語』微子にある虞仲・夷逸・朱張・少連・柳下恵とともに竹林七賢として数えられる清廉潔白な隠者のことです。殷代の公子・孤竹君は、遺言により三男・叔斉に王位を継がせようとしますが、叔斉は長男を差し置いて位に就くことを拒否し、兄に位を継がそうとしますが、結局、伯夷、叔斉は、ともに出奔してしまい、やむなく二男が後継ぎになります。
 その後、消息不明になっていた二人は、身寄りのない老人を養ってくれると聞いた周の西伯(文王)の前に現れますが、そのとき西伯昌は既に亡くなっており、その子の発(武王)の時代に代わっていました。折しも殷の紂王・帝辛を討伐しようしていた発に対して、「父親が亡くなってまだ埋葬も済ませていないのに討伐をするのは孝ですか。殷の臣下である周が主君を討つのは仁ですか」と諌めます。怒り狂った発の側近たちに対して、宰相の太公望呂尚は「二人は義人」であると宥(いさ)めます。
 しかし、発は武力革命を行なって殷を討ち、発は武王として即位し、周王朝成立につながりました。自分たちの主張を受け入れてもらえなかった伯夷、叔斉は山西省の西南部にある首陽山に隠棲しますが、結局、飢え死にしてしまいました。