敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【周恩来】VOL.2


●嵐山に刻された漢詩「雨中嵐山」

 建国当初は政務院総理と称していた国務院総理(首相に相当)に就任しますが、周恩来は1976年に死去するまで27年間、一貫してこの地位にとどまりました。彼の誠実な人柄、自ら欲して権力を求めない謙虚な態度、そして中国革命への献身は、多くの中国民衆から深い敬愛を集めました。
 その人柄には、リチャード・ニクソン、ヘンリー・キッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも絶大なる信頼を集めました。1972年(昭和47)の日中国交正常化を実現、北京で共同声明が調印された映像はいまでも筆者の脳裏に残っています。
 彼はまた、京都もこよなく愛しました。留学を終え、神戸から船で帰国する途中、嵐山で四篇の漢詩を詠った「雨中嵐山」は、現在、嵐山にある嵐山公園(亀山公園)内に周恩来記念碑として刻まれています。中国要人が関西を訪問した際に、周恩来が幾度となく訪ねた嵐山や丸山公園などは必ず訪問する観光スポットとなっています。
 1976年1月8日、周恩来は死去しましたが、文革によって苦しめられた民衆が彼を追悼するべく「第一次天安門事件」を起こしましたが、当局が鎮圧しました。結局、周恩来の遺骸は、生前に妻・ケ穎超と互いに約束していた希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布されたそうです。四人組によって遺骸が辱められる可能性があったからだそうです。
 死後においても高貴な精神を示した氏を知るエピソードとして語り継がれていくことでしょう。