敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【銅鏡】VOL.2


●宋代の銅鏡

 さらに唐の玄宗の時代になると、最高水準の鋳造技術や工芸技術によって紋様のデザインは豪華なものになり、金製・銀製・鍍金(めっき)製、また裏面に金銀、瑪瑙石やトルコ石など自然石を象嵌した絢爛豪華な鏡も製作されるようになりました。国家が繁栄した時代ならではの豪華さといえますが、唐末に起こった動乱によって一気に豪華な銅鏡は陰を潜めてしまいました。
 宋代になると鏡は実用性を重んじ、手で持つために柄がつけられたため、紐を通すための鈕がなくなりました。また時代とともに簡素化され、さらに軽量化、そして薄い銅鏡が製作されるようになりました。
 一方、大陸から日本に銅鏡が伝わったのは紀元前4〜3世紀、弥生時代に稲作とともに伝わったとされています。「魏志倭人伝」によると、景初3年(239)、卑弥呼は魏に朝貢した見返りに100面の銅鏡をもらったとされています。
 畿内説を支持する学者は「三角縁神獣鏡」だと主張しますが、中国での出土例がないことから、近年、その可能性はかなり低くなっており、「方格規矩四神鏡」及び「画文帯神獣鏡」の可能性が高いとされています。
 また、曽根遺跡群にある平原遺跡から発掘された直径46.5センチの「内行花文鏡」は、平成18年に国宝指定されました。桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初)に副葬された国内最多の81面以上の銅鏡と合わせ、「邪馬台国論争」と関連が深いので、ご興味のお有りになる方は是非、お調べになってはいかがでしょう。