敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【孟母三遷】VOL.1


● 孟子肖像

 中国・戦国時代の儒学者と言えば孟子(BC372年〜BC289年)だと誰もが認めるところですが、特に孟子は儒教の世界では孔子に次ぐ重要な人物で、そのため儒教は「孔孟の教え」とも呼ばれるほどです。孔子もそうですが、孟子も父親・孟激が年少の頃に逝去したため、母子家庭で育てられました。そこで孟子の母親・仇に関する故事をご紹介します。
 前漢・韓嬰(かんえい)が著した『韓詩外伝』巻九によると、胎教の大切さを熟知していた孟母は、論語の一節を引用し、「私は懐妊してからは、座席がなければ座らず、切り方が正しくなければ食べなかった。これが胎教である」と口にしたそうです。
 孟母は、胎児は母親のお腹の中にいるときから母親と意思疎通する一個の独立した生命体であり、母親の喜怒哀楽を理解するので、母親の精神状態が安定し、心穏やかであれば、自然に胎児の知恵と優良な品格を形成するはずだと言っています。また、孟母は日常の躾においても、言葉と行動をもって教え、その人格形成に苦心したそうです。
 さらに、列女伝「母儀」鄒孟軻母によると、孟母は、わが子の教育環境に芳しくなく、悪影響が及ぶのを避けました。まず、最初は墓地の近くに住んでいたのですが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたため市場のそばへ引っ越しました。
 しかし、今度は商人の真似事を始めたため、鄒(現在の山東省鄒城市)の街中にある学校の近くに住居を移しました。その住居はよくなかったのですが、付近に学生や知識人が往来しました。彼らは高雅な雰囲気、落ち着いた風格、そして優雅な立ち居振る舞いを放ち、孟子にいい影響を与えました。
 次号では、孟母・仇の教えを受けた孟子のその後について書きたいと思います。