敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【中国古典2】VOL.1

日本と中国は、今年国交正常化30周年を迎えました。昨年の10月8日に中国を訪問した小泉首相は、江沢民国家主席、朱鎔基首相との首脳会談に先立ち、盧溝橋の記念館で、「忠恕(ちゅうじょ)」と揮毫しました。そのことについては、小泉首相メールマガジンのなかで『忠恕とは論語の言葉。弟子の會子(そうし)が、「先生(孔子)は終始一貫して変わらぬ道を歩いてきた。その道とは忠恕である。」と語る一節があり、「忠」とはまごころ、「恕」とはおもいやり』と解釈していました。
  この解釈については議論の分かれるところでしょうが、『論語』をはじめ中国古典にはこのような名言がたくさんあります。それらの言葉は人間が社会生活を営むための指針として永く伝えられてきたものです。
 皆さんもご存じのように、日中関係では政治の場面でもよく中国の故事・格言が使われるケースがあります。古くは1972年、当時、日中国交回復の交渉にあたった田中首相が、交渉成立後に周恩来総理から手渡されたメモの一文「言必信、行必果」を見て喜び、「信は万事の元」と揮毫したという有名なエピソードが残っています。
  ところがこの「言必信、行必果」、実は必ずしも良い意味ではありません。この言葉は『論語』の中で、弟子の子貢(しこう)の「士とはどういう人物でしょうか?」の問に対して、孔子が「己を行うに恥あり、四方に使いして君命を辱めず」と答えたところから始まっています。
  実行が難しいと感じた子貢はその下のランクを訊ね、「親孝行」、「兄弟仲のいい人」、さらにその下のランクが「言必信、行必果」だったのです。
  「言必信、行必果」とは「約束したことは必ず守る。手をつけた仕事は最後までやり抜く」ことであり、これが“士としての最低ランク”としているのです。つまり「約束を守らなかったら、貴方は士より下の、いわばつまらない人間ですよ。」とのニュアンスを込めた周恩来首相の忠告であったのです。 もしこの論語の意味を田中首相が知っていたら、必ずしも喜んではいられなかったでしょう。語句の表面的な意味ではなく、その言葉が発せられた場面や状況を知らなければ、本当の意味は分からないということの典型的な例といえるでしょう。