敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【花火】VOL.1


●夏と言えば花火。見る者の心を奪います。

 花火といえば、夏の風物詩。その美しさと迫力で観る者を楽しませてくれますが、花火の歴史は意外にも古く、漢の時代(紀元前202〜225年)にはすでに火薬の原料となる硝石が発見されています。硝石を使った花火は、秦の始皇帝が「万里の長城」の狼煙(のろし)台で、緊急連絡用の狼煙として使ったのが始まりとされています。
 その後唐代(618〜907年)には火薬が合成され、宋の大宗(在位976〜997年)は火薬による武器を用いたとされています。中国山東省や四川省は現在でも硝石の産地として知られていますが、アラビア語で『中国の雪』と言われた硝石は、シルクロードを通りヨーロッパ方面に伝えられました。
  我が国では戦国時代に武器として花火が使われましたが、江戸時代になってからは観賞用として、多くの職人を輩出しました。
  「玉屋〜」、「鍵屋〜」、東京の大花火を観に行った時、こんなかけ声が聞こえてきました。玉屋、鍵屋といった江戸を代表する二大花火師は、両国の川開き花火を発展させてきました。日本の花火史はこの二人を無くしては語れません。
  1733年(享保18年)に初めて川開き花火を行なったのが、六代目花火師「鍵屋弥兵衛」。このたった20発程度の打ち上げ花火は、江戸中の人を集める年中行事となり発展していきました。その後鍵屋から玉屋が暖簾分けとなり、名人・清七が1810年(文化7年)「玉屋市兵衛」を名乗りました。以後両国の川開き花火は、上流に玉屋、下流に鍵屋がそれぞれ舟を出し、二大花火師の競演となったのです。
  ところが1843年(天保14年)玉屋は失火で全焼、江戸の町半丁を焼失させ、江戸追放の罰を受けます。このことで、一代限りで断絶した玉屋と、戦前まで続いた唯一の江戸花火屋「鍵屋」の競演は、わずか32年でピリオドが打たれました。
  さてこの後日本の花火はどうのような運命を辿ったのでしょうか、次号をお楽しみに。