敬天齋主人の知識と遊びの部屋

敬天齋主人の知って得する中国ネタ

【六十干支】VOL.1


●西周時代の青銅器(左:小社蔵品より)と近代名家、来楚生の干支印「虎虎狗羊狗龍馬兎」

 今日の書道界における展覧会では、書家が作品の最後に落款を入れる時、「癸未春日」などというように六十干支(ろくじっかんし)を用いてその年を表示する方法がよく取られています。古書画を購入する際にも、落款を見て「作者が生きた時代のものか、何歳の頃の作品か、間違いはないか。」の判断をする基準として非常に重要な証拠となります。
  分かりやすく言いますと、「甲、乙、丙…。」という十干(じっかん)と、「子、丑、寅…。」という十二支(じゅうにし)を組み合わせた六十干支は、60年で一周回る訳ですから、作者が生きた時代と、紙や布、表具の形態、古びなどで真贋を判定する際の基準にもなるということなのです。
  しかしながらこの六十干支、元来は「年」ではなく「日」を表示するものだったことは意外にも知られていません。殷・周の時代には日だけを表示していましたが、漢代になってからは日と年の両方を表示するようになりました。さらに近現代になってからは日を表示することはほとんどなくなり、六十干支は年を表示するためのものとして認識されるようになったのです。
  さて、殷代(紀元前15〜11世紀)の甲骨文や青銅器に刻された金文には、この六十干支を刻した文字資料があり、近年たくさん出土しています。当時の王は10個の太陽の子孫と考えられていたため、王が死ぬと太陽のなかの一つを諡(おくりな)としたことが金文の資料からも確認されています。
  空には10個の太陽が順番に昇って来ると考えられていたので、日は十干の名前で呼ばれ、10日間の最後の癸(き)の日には、次の10日間の吉凶を占うため、卜旬(ぼくじゅん)という甲骨を焼いて定期的に占う儀式が行なわれていたようです。殷の国王は政治に関する何事においても占卜(せんぼく)によって決定していたので、定期的な卜旬と随時行なわれる占卜の結果、多くの甲骨文字資料が出土したようです。
  金文も甲骨文と同様に、銘文の冒頭に「甲子」という風に六十干支で「日」を書き、銘文の後半部分に「十月又二」と数字で「月」を書きます。さらに「年」を書く場合は銘文末尾に「隹(これ)王(おうの)廿祀(にじゅうし)」という具合に王が即位した後の年数を刻すのです。