敬天齋主人の知識と遊びの部屋



民間に眠る名品シリーズ
商品名:
呉昌碩手札詩巻合刊  

呉昌碩手札詩巻合刊 


著者:
林 宏作
発行:
アートライフ社 2016.4.15
価格:
本体3,000円+税
ISBN: 978-908077-05-0 C3070
仕様: A4並製 本文62頁 オールカラー(全頁彩色)



「民間に眠る名品シリーズ 第7弾!」

呉昌碩中国清朝末期の偉大なる藝術家である呉昌碩(1844〜1927)は、書畫篆刻全てに秀でた四絶と称されています。印学のメッカである西★(さんずい編に令)印社初代社長となり、篆刻界のトップとして地位も名誉も獲得、多くの人が呉昌碩の書画篆刻作品を求めました。多くの日本人との交流があり、日本で個展開催も行われたため、我が国には多くの呉昌碩の作品が残されています。

本公司出版的刊物「★(手偏に高)睡於民間之名品」第七「呉昌碩手札詩巻合刊」、閃亮登場!
活躍於中国清朝末年的呉昌碩(1844〜1927)、被称為詩書画篆刻、四絶的偉大藝術家、他曽経在日本?過個展、也留下了衆多的作品。通過臨書石鼓文得到的強靱有力的線条、絶妙的平衡感、以及自由奔放的感性表現、其筆法成為衆多藝術家、愛好家所憧景。



創作を意識した作品とは違い、日常の筆跡を知るためには尺牘(手紙)は最高の資料です。呉昌碩は日課であった石鼓文の臨書で得た強靱な線質や、絶妙なバランスやセンス、そして自由奔放な感性から表されるその筆致は、淡々と書いたもの、気を遣いながら書いたもの、感情が表出されたもの、など非常に多岐に亘って発揮されています。




本書で紹介した尺牘は、
本刊介紹的尺牘為;

1.陶博吾・李可染題簽・啓功跋 呉昌碩尺牘一六葉冊
呉昌碩が熙伯、つまり何汝穆(??一九二一)に宛てた手紙である。
啓功氏は後跋に一九一七年前後の尺牘と記しているが、現存人物として楊?(一八九六年没)、楊佩夫(一九一一年没)、楊葆之(一九一二年没)が記されていることから、少なくとも一八九六年以前から一九二七年、すなわち呉昌碩五三歳以前から七八歳までの尺牘であると断じる。
なお、蒐集者が時代考証を行わずに装丁したため、それぞれの尺牘はバラバラな順序となっている。

呉昌碩写絵煕伯、即何汝穆(?〜1921)的16涵尺牘。啓功在其後跋中記為1917年前後的尺牘、从記述中当時的人物楊?(1896年卒)、楊?夫(1911年卒)、楊葆之(1912年卒)来看、可以断定至少涵蓋了1896年之前到1927年之間、即為呉昌碩自53歳到78歳之間的尺牘、蔵家未対其進行年代考証就装?成冊頁、故其毎封尺牘未按年代之序排列。
  


2.輓蘭匂詩稿四葉冊
日本統治時代、中国に渡った朝鮮人・蘭匂は自ら「東海の蘭匂」と号した。呉昌碩は彼の蘭畫を高く評価し、三十数年の交流を持った。
蘭匂は呉昌碩の印を好み、三百余方の刻印を依頼するほどであったが、肝肺の病いにより一九一四年五月に急死した。
この詩稿はその友人・蘭匂への輓歌(哀悼の詩)である。

日本続治時期、来到中国的朝鮮人蘭匂、自号為「東海蘭匂」。呉昌碩対其蘭画評價很高、輿其保持了三十几年的交往。
蘭匂喜歓呉昌碩的印。甚至訂製達三百余方。不幸因患肝病、於1914年5月去世。該詩稿是呉昌碩給其友人蘭匂写的輓歌(哀悼詩)。


3.呉昌碩尺牘八葉冊
呉昌碩が学博、大学教育者である子選に宛てた手紙であるが、人物の特定が困難であるものの、相手を敬う表現や丁寧な文体で書かれていることから年長者か社会的地位の高い人物と思われる。
また、尺讀の内容は子選から仕事の依頼を受けたことに対する返信、息子・呉涵の結婚祝いをもらったことへの礼状、肩痛・腰痛のことなど、親戚か家族ぐるみの、ごく親しい間柄であると推察される。

呉昌碩写絵博学者、大学教育者子選的信札。
該人物子選的特定較難、不過从其之中用尊敬対方、以及認真的文体表現来看、対方是長者或社会地位較高的人物。
号外、尺牘的内容為其給接受子選依頼工作之回信、子選給其子呉涵結婚祝福之答謝信
以及写有肩痛、腰痛等。从其内容可推断、他輿収信者為親戚或是家族等特別親的関係。


4.白龍山人跋 田軍門求己圖詩稿/手札
この巻子には「田軍門求己圖」とあることから、初めに畫があったと思われる。人物名の特定が困難であるが、軍師・将軍を褒め称える内容の詩を、時を経て中盤の「又」以降、再び詩を書いている。
ところが、「示悉」以降は手紙であり、一九〇二年八月に没した呉大徴が数人の付き人とともに旅行したことが書かれている。詩稿と手紙の両者に何ら関連する内容ではないため、別々に入手した詩稿と手紙を巻子仕立てに同一表具してしまったものと思われる。

該手巻題有「田軍門求己圖」、由此最初認為是画作。人物名特定較難、其内容為褒奨、称賛軍師・将軍之詩作。
隔一時段、中盤之「又」以後、再写詩作。但是、「示悉」以後為書信、書信写有1902年8月去世的呉大徴和数人随从一起旅行之事。詩稿和書信?者没有絲毫内容関連。為将分別到手的詩稿和書信装?成一個手巻。


の四つの尺牘と詩稿を合刊し一冊にまとめたもので、呉昌碩の日常の筆跡を知る最高の資料です。卒意の尺牘(手紙)であっても作品創作を意識したかのような魅力をも感じさせます。

由以上四篇尺牘和詩稿組成一冊、與有意識創作的作品不同、它是能了解呉昌碩日常筆法的最好資料、即便是不経意写的尺牘(書信)、也能使人感覚到好像有意識進行作品創作的魅力。

さて、呉昌碩は順風満帆な藝術家人生を送ったように思えますが、実際には妻・施酒の健康状態が優れず治療費や薬代が必要となったこと、また多額の借金を抱えた2人の息子、呉涵(ごかん)と呉東邁(ごとうまい)の後始末に追われ、心身共に千辛万苦な日々を過ごしたようです。
友人でスポンサーでもあった沈石友に充てた尺牘に、
  金揮潤筆償児債、紙録単方療婦?。
があり、潤筆料を稼いで妻の医療費と藥代を、そして息子たちの借金を返済せんとする心情を吐露してこと事実もあります。
本書に掲載した尺牘にも手紙を通じて書人のプライベートや交流関係が分かり、その内容が書面に現れることは非常に興味深く、意義のある発表と考えています。


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