『述書賦全訳注』
尾崎邑鵬会長の作品
◆先日、5月20日の由源書道会の書展を見に行きましたが、会場を入って正面の処に、尾崎邑鵬会長の作品がありましたが、為書きに「大野修作述書賦全訳注の句」より取ったとあるのには驚きました。これまで自分の作品、と言うより訳注をしたものですので、その読み下しを題材にされるようなことはなかったからで、少し戸惑いましたが、何といっても尾崎邑鵬会長の進取の精神には脱帽しました。
◆しかし考えてみれば、これは大いにあって然るべきもので、これまでそうした新しいことに取り組む姿勢がなかったことの方がおかしいのです。ほとんどの書家が手頃な墨場必携などの書物に頼って、真剣に題材探しをしてこなかったのが、恐らく最大の要因でしょう。そうした姿勢では新しい書は生まれにくく、題材の言葉探しが真剣になされなければ、書の造形も甘くなります。そもそも墨場必携を持ち出して書作品を作ろうという姿勢は、日常のルーティンそのもので、真の芸術からは遠いといえるでしょう。
『啓功書話』
◆とはいっても、中国の文人にとっても、書の題材を自ら作成するときは、自作の詩を作ることが基本ですが、それはやはり大切で大変なことでありました。散文であってはいけないというか、散文は正式ではないのです(ちなみに賦は韻文です)。これを痛感したのは、現代中国を代表する書家とされる啓功先生の『論書絶句一百首』を小生が翻訳して、『詩でたどる書の流れ(二玄社刊)』を出版した関係で、北京師範大の宿舎で啓功先生にお会いしたときです。
◆啓功先生はその姓が愛新覚羅であるように、清朝の皇族です。建国から三百年もたつと、「もう私は滿洲語が話せません」と言っておられましたが、漢民族の高い文化を継承することの誇りを持っておられました。従って日頃、したためていた原稿は、時間を掛けて韻文、すなわち詩の形にしていたのです。
啓功先生
◆そしてそれは啓功先生に限ったことではなく、書道の基本図書の性格を知る必読書に余紹宋の『書画書録解題』がありますが、余紹宋は、此の書物はまだ途中の段階の書物であると言っています。なぜかと言いますと、それは散文で、研究ノートの域を出ていない、完全なものではないという考えがあるからです。
◆そもそも余紹宋は、始めは画論の蒐集整理をしていて、『画法要録』という冊記を作りました。画論を分類整理して、その要点を押さえたもので大変便利なものです。しかし本来の意識ではそれを韻文にするための研究ノートであって、いずれは「論画絶句」にするという意識が働いていました。しかしあまりに便利に良くできているので、友人が「そのままの形でよいと言われて出版した」と序文に述べています。
尾崎先生と大野氏
◆さらに画論を整理すると、書論も必然的に分類整理する必要に迫られてきますが、書画論を会わせた形で分類整理して図書解題したのが『書画書録解題』です。実に良くできていて、完成以後六十年、これを完全に越える書物はまだでていません。しかし、余紹宋の意識の中では、「あれは途中の段階の書物であって、韻文すなわち詩になって始めて完全になるのだと思っている」と序文に述べていますが、彼は書家、詩人であるよりは、分類を得意とする学者でありました。
◆今回の由源展の展示から本物の書とは何か、書の題材はいかにあるべきかを考えさせられましたが、併設して展示されていた清朝の絵画もすばらしいもので、尾崎先生は書も画も本物を見ておかねばならないという信念のようなものを持っておられるのを感じました。 |