◆私が14年前に在外研究で、北京の歴史博物館で研修をしていた折、外国人用の宿舎が無いと言うことで、北京師範大の専科楼を宿舎にしていました。此は小生を招聘して下さった歴博の史樹青先生が輔仁大学の出身であり、輔仁大学は後に師範大と女子師範をあわせて北京師範大となったことによるもので、史先生の推薦で入ることが出来ました。史先生の輔仁大学時代の先生は、陳垣先生や啓功先生でした。
◆そのころ私は啓功先生の『論書絶句一百首』を翻訳して『詩でたどる書の流れ』という本を二玄社から出版しており、更に『書の宇宙』というシリーズの中国書道史を毎月一冊書いておりましたので、月に一度は啓功先生に会うことが出来るという幸運に恵まれておりました。当時の啓功先生といえば、中国を代表する書家であり、愛新覚羅の姓が示すように、清朝の皇族で、普通の人が会おうと思っても、なかなか会見できるものではありませんでしたので、中国人からも何と幸運なのだと羨ましがられました。
朱玉麒氏と大野氏
◆さらに中国語の先生(輔導といいました)を付けて欲しいと史先生に言うと、啓功先生を介して、啓功先生のゼミ生の朱玉麒という博士後期課程の学生を紹介してくれました。其の朱君から最近『西域文史』という学術雑誌が送られてきました。見ると彼がその学術雑誌の主編です。何と偉くなったものであると感心してしまいました。
◆私の中国語の輔導であったときは、新疆師範大の講師で、かつ北京師範大の博士後期の院生という身分(中国の大学院の博士後期流動站)でした。輔導というのは家庭教師みたいなもので、時給で払うというものでしたが、毎週末はたいてい一緒に酒を飲み、中国語で好きなことを言い合うと言うことで、時間を忘れて激論したこともありました。
◆したがって中国人のものの見方や、発想の根幹に関わる部分は、朱君から得たと言える部分が多いのも事実です。書画骨董は史樹生先生から勉強しましたが、ほとんど北京の有名なオークションの下見に行ったときに、実際の書画を見ながらの最高の鑑定、解説ですので、大いに勉強になりました。望みうる限り最高の環境にいた一年と言えます。
◆その朱君が夏休みになったら、家族のいる新疆の烏魯木齊に帰省するというので、私も一緒に行きたいと言って、夏の盛りに新疆維吾爾自治區の旅行にでました。もちろん列車の旅ですので、北京を出発して烏魯木齊に着くまでの72時間、三日三晩の旅でした。二等寝台ですので、三段ベッドの列車で、食事も北京で買い込んだ即席麺とお菓子がほとんどで、たまに駅弁の買えるところで、駅弁も買いました。
◆毎朝夕、車掌がポットのお湯を交換に来ますが、普通なら飽きてしまいそうな旅ですが、日本人が二等列車にのっていることは珍しいということで、次から次と来客が来て、全く飽きることがありませんでした。蘭州を過ぎると車窓から見えるのは砂漠ですので、日本とはまったく異なる景色の中で、様々な疑問を中国人にぶつけていたような気がします。
新疆師範大での講演
◆朱君の家族(当時彼は結婚していて奥さんと子供一人ありました)に挨拶した後は、師範大の宿舎に泊まりながら、朱君が建ててくれた計画に沿って、新疆師範大での講演、歓迎夕食会、更に南山牧場でのバーべキュー大会(私のために羊一頭を使いましたし、馬にも乗せてもらいました)、トルファン、ベゼクリク千仏洞、高昌古城、アスターナ古墳、葡萄溝、天池遊覧など、盛りだくさんの行事をこなしました。しかし朱君のもてなしと、私自身も初めての西域旅行ですので、疲れも知らず、本当に楽しい旅をさせていただきました。
高昌古城
◆その朱君から、もしまた烏魯木齊に来るなら歓待するので是非来てくれと、手紙を添えて、『西域文史』が送られてきました。西域研究も、書論でも西川寧の時代はとっくに終わっていて、中国での研究は進んでいて、日本は水をあけられたという感が強くします。今年の秋、旅行団を組むことが出来れば、もう一度、西域を訪ねてみたいと思っています。
大野氏
◆朱君も偉くなって、今は師範大の教授であるばかりでなく、西域研究センター長であり、かつ華東師範大の兼職教授でもあり、上海でも年に一ヶ月以上講義に出張しています。恐らく忙しくて、限られた時間しか応対してもらえませんかも知れませんが、最新の最高の研究情況知ることが出来る機会ではないかと思います。
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