◆この四月に私の大学時代の親しい友人の池田君から警視総監に就任した旨のはがきが来ました。彼は京都大学時代の同級生で、同じ書道部に属していました。池田君ははじめ私と同じ文学部に入学しましたが、二回生から法学部に転部して、四年で卒業しました。私はその後六年も大學、大学院に籍を置いていたのと違い、彼は卒業後は警察庁に入り、エリート街道を踏み外すことなく走って、遂に頂点に上り詰めたわけです。その間、三十数年間、転勤になるたびに転居通知をくれたので、私も年賀状は欠かさずやりとりしていました。しかし流石に警視総監になったわけだし、お祝いのことを考えましたが、私には色紙に漢詩を書いて送ることぐらいしか思いつかず、とりあえず漢詩を自作して、毛筆で色紙に書いて、彼の住所に送りました。その住所はそれまでとは変わっていて、後で知ったのですが、警視総監公舎でした。
(左)池田警視総監
◆すると池田君はそれにいたく感激したらしく、日本経済新聞に「交遊抄」という欄があるのだけれど、小生のことを書いても良いかと尋ねるので、どうぞご遠慮なくと答えると、5月28日の朝刊に書いてくれました。「同期を仰ぎ見る」と題して、小生と牛島君(現在第三管区海上保安本部長)の二人を仰ぎ見るという内容でしたが、ともに同級生であった小生と牛島君を、書道の先達として仰ぎ見ていたというものでした。今や泣く子も黙る警視総監ですが、小生たちのことを仰ぎ見るなどと持ち上げ、かつ小生の色紙は警視総監室に掲げてあるなどと、心憎い演出でもありましたが、元文学部出身だけに達者な文章でした。
◆するとその新聞を見た長野の川村龍洲先生が、警視庁には川村驥山の書が掲げてあるはずだと手紙をくださり、池田君に尋ねると確かに存在する、もし見るのであれば案内するからというので、東京出張のついでに警視総監室を訪ねました。警視庁に着くと、門前で一応誰何を受けますが、事前の予約をしてあるものであるというと、護衛のSPが出てきて、総監室に案内してくれました。
川村驥山の題額の前で
◆池田君とは三十年ぶりの再会でしたが、お互い年取ったものの、すぐにうち解けることが出来ました。総監室には、事前に見ておきたいと注文して置いた書が已に出してありました。西川寧の書等です。しかし川村驥山の書は大きいので大講堂に掲げてあり、午後に大講堂は使うので、午前中に見て置いてほしいと部下の係官が言うので、先ず十七階の大講堂に行きました。そこの正面には川村驥山の「春風接人、秋霜持己」(春風をもって人に接し、秋霜をもって己を持す)と大きな対聯の題額がありました。講堂の両側は歴代の総監の肖像画が陳列されており、圧倒されるような数と荘厳さでしたが、驥山の書はそれに負けない迫力のある力強いものでした。川村驥山は長崎の修行から神戸に戻り、清浦奎吾の斡旋で内閣賞勲局に勤めた経緯があり、恐らくその縁で掲げられたのでしょうが、文章も書も警察にふさわしいものでした。この対聯は佐藤一齋の『言志四録』の中の『言志後録』中の一節ですが(岩波文庫版では後半、「秋霜自粛」と作っています)、おそらく文書も書も練りに練って書いたのではないかと推察されました。
◆講堂から総監室に戻ると昼食が用意されており、総監と差し向かいで食事をしながら、書を題材に話をしました。已に述べた西川寧氏の書が二点、総監自身の書が一点、そして小生の色紙が一点掲げてありました。歴代、警視庁の書道担当は謙慎系の書家なので、青山杉雨の書もあるはずだと川村さんは言いましたが、現在は見あたらないと言うことで、今回は見られませんでした。西川氏のものは横額と縦書きのものでしたが、通常のものという感じがしました。警察官はやはり書がそれなりに書けなければならないという見解は総監と小生で共通していましたので、昨今の政治家が書が書けないことを遺憾なことだと嘆きつつ、何とか善処の方法も見つけなければならないと言うことで、総監室を後にしました。
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