小川環樹先生揮毫
◆『書法漢学研究』第17号をお送りします。今号は日本のものが多くなりました。中国との文化交流もかつてほどには盛んではないようですが、中国側の急激な経済発展ほどには文化の発展は期待出来ず、オークションなど経済活動の方に目が向いているというのが現状ではないでしょうか。それでも一昔前までは、文化人と云えば漢詩を作り、書を書いたというのが通例であったようですが、それも分からなくなって居るようですので、そうした紹介も兼ねて、今号では日本物が多くなったような気がします。江戸時代の頼山陽の「渉成園記」、女流詩人の三浦英蘭など、これまで紹介されたことはないと思います。そして台湾時代の山本竟山です。
◆山本竟山と云えば、日下部鳴鶴の弟子としてのみ捉えられ、実像が能くわからないままでした。関西ではそれなりに名を知られていますが、関東でその名を知る人は多くないでしょう。しかし「碑学派」というものを考えた場合、本来の楊守敬が日本にもたらした碑学の本流と言うべきものは、山本竟山に最もよく残っているというのが、私の考えです。鳴鶴の弟子の比田井天来を中心とする書の団体は大きくは成りましたが、天来流とも称すべきものに変質し、と言うか日本化して、本来の碑学の姿を留めるものではありません。
◆それに対し、山本竟山は深く碑学に傾倒して、京都を中心に大きな石碑を碑学風な書で残してくれました。「豊国廟」碑などは毎日見ながら通っていましたが、私の学生時代の恩師・小川環樹先生が山本竟山の弟子であることを知っている人はどのくらいいるでしょうか。もちろん其の兄の湯川秀樹、貝塚茂樹先生も、竟山の弟子です。
◆三兄弟揃って竟山の弟子でしたので、みな書がうまかったのはお世辞ではありません。最も本格的に中国の碑学を学んだのが小川環樹先生で、重厚な書は『京都大学人文科学研究所漢籍分類目録』題字等に見ることが出来ます。湯川先生は流麗な書で、京大書道部展などで頼みに行くと、よく揮毫されるのは和歌などでした。貝塚先生はきっちりした楷書を書かれました。この三兄弟を書道の面で引き継いでいたのが大阪の泰山書道院で、湯川先生の奥さんの湯川スミさんは、長いこと泰山書道院の名誉顧問をされていました。
◆その山本竟山は前半生を台湾で過ごしましたが、其の詳細が之まで分かりませんでした。香取潤哉氏は現在台湾に居住していますが、地の利を生かして詳細に台湾時代を追跡されました。当時は台湾に居住していても大陸に行き来が出来、大陸と台湾の書道の双方が学べるという貴重な機会を活かしきって、碑学の書家として大きな成長を遂げたのが、竟山であるとの結論を導きだしました。湯川秀樹、小川環樹先生などが学ばれたのは竟山の後半生ですが、よき指導に恵まれたという気がします。
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