敬天齋主人の知識と遊びの部屋
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メールマガジン Vol.22 2018年3月6日発行


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梅『書法漢學研究』第22号お届けします。定期刊行に漕ぎ着けてほっとしています。近頃は原稿の集まりが良くないのですが、どうも若い人が忙しすぎるのが一つの要因です。雑用に追われて、じっくり原稿を錬っている時間がありませんと若手の研究者からよく聞きます。そしてもう一つが、日本書道史が曲がり角に来ているようです。ゆえに大きな構想力を働かせるような論文は避けられてしまいます。本号も日本書道史を問い直すような。ことに日本儒学や平安書道会など「碑学」の名の元に埋もれていた部分を掘り起こす、それは引いて明治以後の碑学中心の書道史観を問い直すことになります。次の新しい書道全集がどうあるべきかの一つの提示、選択肢が出来たのではないかとも思います。(大野修作)


【本号の内容】
 「書法漢學研究」第22号のご案内
 「書法漢學研究」第22号発行にあたって −大野修作−
 敬天齋主人訪中記 −近藤 茂−

「書法漢學研究」第22号のご案内
書法漢學研究第22号  
【論考】
『松秀園筆談』と十時梅香|近世日中文化交流点描− 大野修作
【論説・資料紹介】
金石のたのしみ 萩 信雄
近代日本書道史の再検討 中村史朗
周越の生涯及び没年について 陳志平著
菅野裕子(訳)
長尾雨山漢詩補遺集(四) 大野修作
長堀特集 番外編(後編) 花田尊文
 
 
「書法漢學研究」第22号発行にあたって −大野修作−

【大野修作『松秀園書談』と十時梅香z

十時梅刻総
十時梅刻総

『松秀園書談』の名を知る人は現在ではほとんどいないと思われます。また十時梅高熏]戸の文人として名は知られて居ますが、それ程ポピュラ―ではありません。そのあまり有名でない両者を取り上げて論考の対象にすると言うのは、それらを繋ぐものが重要であり、考察すべき問題を含むとだと私自身が判断したからです。

獨立性易
獨立性易
というのも先日、大阪で尾崎蒼石氏の篆刻団体『蒼文篆会』の展覧会が開かれ、作品の展示と共に、江戸時代の文人書家、中でも来舶の書画家の作品の展示がありました。錚々たる顔ぶれの画期的な展示で、日本書道史の書き直しが逼られているように感ずる豪華な充実した内容でした。あらためて中国の文化の影響下に日本書道史は形成されていることを確認させられる思いを持ちましたが、どのように全体をとらえるべきか、如何に変革期の日本書道史を叙述すべきかに悩みました。少し大げさと思われるような叙述を試みようとするのは、一つには二十数年前の中田勇次郎先生からの宿題でもあり、現在の日本の書道がどのように進むべきか、次の書道全集は如何にあるべきかを考えていることを示せるのではないか、それは『書法漢學研究』を主幹する者の責務とも思ったからです。

木庵性?
木庵性?

前記の同展は「来舶僧とその周辺」「來舶画家」「江戸期の文化人」の三部構成でしたので、全体を展望するには、それを繋げる接着剤のような人が必要だと判断した結果、『松秀園筆談』と十時梅高ェ選ばれています。『松秀園書談』は伊勢の長島侯・増山河内守正賢の著にかかり、寛政五年三月に上梓されましたが、後序は十時梅高ェ書いています。その複写影印本が昭和12年、「秘籍大名文庫の一冊として、厚生閣より出版されています。ところが今回の展示は、私の怠惰を吹き飛ばすほどに、隠元隆g、費隠通養、獨立性易、木庵、東皐心越、伊孚九、李用雲、費漢源、費晴湖、張秋谷、江稼圃をはじめ、伊藤仁齋、細井広沢、趙陶齊、高芙蓉、池大雅、韓天寿、木村蒹葭堂、十時梅香A市川寛斎など錚々たる顔ぶれでした。ちなみに来舶四大家は、伊孚九、費漢源、張秋谷、江稼圃の四人を指しますが、『松秀園書談』と直接、間接に関わる人の名ですので、これを機に該書を探り、全体像を模索する必要があると判断したからです。

東皐心越
東皐心越

まず十時梅高ナすが、基本的鍵を握る人なので、一応略伝を見ておきますと、十時梅(1749〜1804)、江戸後期の儒学者。名は賜、字は子羽、別号は顧亭、清夢軒など。大阪人。儒学を伊藤東所、書を趙陶齊に学び、篆刻にも優れました。彼は性酒を嗜み、磊落奇偉で言語快活、時に諧謔を交えました。世人は目して狂とみなしました。遂に世と合わず、寛政二年(1790)に数ヶ月の暇を乞い、長崎に游び、清人の費晴湖、陳養山らと交わり、主として画の六法は晴湖に、筆法を養山に問いました。寛政十二年には藩の職を解かれ、大阪に戻りますが、細合半齊、木村蒹葭堂、岡田米山人など多くの文化人との交流がありました。以上がその大概ですが、趙陶齊と費晴湖という中国人、また半帰化人に彼は画を学んでいると言うことが重要です。

高芙蓉
高芙蓉

趙陶齊は正徳三年(1713)に長崎で生まれ、天明六年(1786)74才、堺で没しましたが、要するに中国人を父とする長崎生まれというになりますが、趙陶齊の傳記に深入りせずに、今述べた長崎を通じての中国人との交流が持つ意味は、主に黄檗によりもたらされた中国文化は、明の遺民によりもたらされたものであり、江戸初期に中国から、偶然にもいわば世界最高の高い文化が流入して日本の書や篆刻を形成したのであり、其れが見直されるべき時に来ていることを中心に述べています。次の新しい『書道全集』がこの辺から書き直しが始まってもよいと構想されています。


【中村史朗氏の近代日本書道史の再検討】

本論稿も日本書道史の見直しを逼る内容です。明治以後の書道史を席巻したのは、「碑学」であり、その提唱者の日下部鳴鶴、中国から其れを伝えた楊守敬ばかりが注目されていました。しかし内藤湖南、長尾雨山といった京都中心とする人達の業績の見逃せないのであり、平安書道会を取りあげているのは、注目すべきであり、今後の近代日本の書道史が書き直される素地を提供しています。


【萩信雄氏の金石のたのしみ】

本稿は講演録を活字に起こしたものですが、金石を楽しむことを述べていますが、著者は書画骨董に造詣が深いことは広く知れ渡っています。しかし楽しむためには学問がなくてはならぬと言うのが信条です。金石学というのは、金石というものを通して、学問が楽しいものであり、ますますの深みに連れて行ってくれる貴重なきっかけであることを、身近な拓本を例に分かりやすく述べてくれています。

 【連載、翻訳、資料紹介】も続き物ですが、新しい知見に満ちています。


 
 敬天齋主人訪中記 −近藤 茂−

2月1日から6日まで訪中してきました。楽しみにしていたのは上海に住む王孝方氏とご自宅で面談することでしたが、思いのほか、夕食までご馳走になりました。王孝方氏は清末民初に活躍した実業家・書画家・銀行家・政治家の王一亭[1867年12月4日(清同治6年11月13日)〜1938年(民国27年)11月13日]の直系の曾孫に当たる方で、貴重な出版物や写真などを拝見させていただき、改めて王一亭の実像に迫る知識を得ることが出来ました。

王一亭(右)と王个?(1936年)
王一亭(右)と王个?(1936年)

王一亭は、名は震、字を一亭で知られています。仏教徒としての活動し、法名は覚器。号は梅花館主、海雲楼主、白龍山人と名乗りました。任伯年に画を学び、呉昌碩と師友となって親交を深め、画家としても優れた業績を残しました。王一亭は作風から呉昌碩の影響を強く継承し、人物、花鳥、山水を得意としましたが、晩年作でよく見られる仏画から、いかに仏教に篤く信仰したかが窺えます。呉昌碩との交友は、いろいろな書籍で紹介されていますので割愛いたしますが、1912年に呉昌碩が70歳を迎えて蘇州から上海に居を移したのを機に、王一亭が呉昌碩の経済的支援に大きな役割を果たしました。

王一亭(右)から水野☆梅、呉昌碩
王一亭(右)から水野☆梅、呉昌碩

王一亭は白石六三郎が上海で開店した和食料理店「六三園」で、商業界、金融界、政界などの要人との交流を働き掛け、呉昌碩の名を知らしめたことで、呉昌碩の作品制作と潤筆量は跳ね上がり、その2年後の1914、六三園において「第一回呉昌碩展」が開催されました。

幽冥鐘
幽冥鐘

我が国との関わりで特筆すべきは、1923の関東大震災時、僅か3日間で上海で「中国協済日災賑会」を立ち上げ、海外からの救援物資第一号として、185,000元もの義援金を使って白米五5,950包、麦粉20,000包を始め生活必需品を買い求め、それらを神戸港に届けました。また杭州で自身の書画を寄贈して資金を調達し、梵鐘「幽冥鐘」を作りました。幽冥鐘は黄銅鋳造で、高さ1.69メートル、口径1.21メートル、重量1.56トン、周囲に「普聞鐘声・冥陽両利」と刻されています。1930年10月1日、東京両国の東京震災記念堂(都慰霊堂)が建設され、鐘楼落成式、始鐘式、追善供養式が行われ、以降毎年9月1日の震災が起きた同時刻11時58分に鐘楼にて梵鐘を鳴らし、王一亭の「救済親善、隣人互助」の精神を伝承しています。

これまで比類ない大震災に見舞われた当時の日本は経済的困窮を迎えましたが、それを打開するべくして日本軍は中国侵略を企てました。日中国交関係は次第に悪化し、そのため王一亭は香港に避難しましたが、体調を崩してしまいます。家族に会うべく僅か一年で上海行きの船に乗り込みますが、その船中で倒れ、意識不明のまま上海に戻り、遂には帰らぬ人となりました。





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