【大野修作『松秀園書談』と十時梅香z
十時梅刻総
◆『松秀園書談』の名を知る人は現在ではほとんどいないと思われます。また十時梅高熏]戸の文人として名は知られて居ますが、それ程ポピュラ―ではありません。そのあまり有名でない両者を取り上げて論考の対象にすると言うのは、それらを繋ぐものが重要であり、考察すべき問題を含むとだと私自身が判断したからです。
獨立性易 というのも先日、大阪で尾崎蒼石氏の篆刻団体『蒼文篆会』の展覧会が開かれ、作品の展示と共に、江戸時代の文人書家、中でも来舶の書画家の作品の展示がありました。錚々たる顔ぶれの画期的な展示で、日本書道史の書き直しが逼られているように感ずる豪華な充実した内容でした。あらためて中国の文化の影響下に日本書道史は形成されていることを確認させられる思いを持ちましたが、どのように全体をとらえるべきか、如何に変革期の日本書道史を叙述すべきかに悩みました。少し大げさと思われるような叙述を試みようとするのは、一つには二十数年前の中田勇次郎先生からの宿題でもあり、現在の日本の書道がどのように進むべきか、次の書道全集は如何にあるべきかを考えていることを示せるのではないか、それは『書法漢學研究』を主幹する者の責務とも思ったからです。
木庵性?
◆前記の同展は「来舶僧とその周辺」「來舶画家」「江戸期の文化人」の三部構成でしたので、全体を展望するには、それを繋げる接着剤のような人が必要だと判断した結果、『松秀園筆談』と十時梅高ェ選ばれています。『松秀園書談』は伊勢の長島侯・増山河内守正賢の著にかかり、寛政五年三月に上梓されましたが、後序は十時梅高ェ書いています。その複写影印本が昭和12年、「秘籍大名文庫の一冊として、厚生閣より出版されています。ところが今回の展示は、私の怠惰を吹き飛ばすほどに、隠元隆g、費隠通養、獨立性易、木庵、東皐心越、伊孚九、李用雲、費漢源、費晴湖、張秋谷、江稼圃をはじめ、伊藤仁齋、細井広沢、趙陶齊、高芙蓉、池大雅、韓天寿、木村蒹葭堂、十時梅香A市川寛斎など錚々たる顔ぶれでした。ちなみに来舶四大家は、伊孚九、費漢源、張秋谷、江稼圃の四人を指しますが、『松秀園書談』と直接、間接に関わる人の名ですので、これを機に該書を探り、全体像を模索する必要があると判断したからです。
東皐心越
◆まず十時梅高ナすが、基本的鍵を握る人なので、一応略伝を見ておきますと、十時梅(1749〜1804)、江戸後期の儒学者。名は賜、字は子羽、別号は顧亭、清夢軒など。大阪人。儒学を伊藤東所、書を趙陶齊に学び、篆刻にも優れました。彼は性酒を嗜み、磊落奇偉で言語快活、時に諧謔を交えました。世人は目して狂とみなしました。遂に世と合わず、寛政二年(1790)に数ヶ月の暇を乞い、長崎に游び、清人の費晴湖、陳養山らと交わり、主として画の六法は晴湖に、筆法を養山に問いました。寛政十二年には藩の職を解かれ、大阪に戻りますが、細合半齊、木村蒹葭堂、岡田米山人など多くの文化人との交流がありました。以上がその大概ですが、趙陶齊と費晴湖という中国人、また半帰化人に彼は画を学んでいると言うことが重要です。
高芙蓉
◆趙陶齊は正徳三年(1713)に長崎で生まれ、天明六年(1786)74才、堺で没しましたが、要するに中国人を父とする長崎生まれというになりますが、趙陶齊の傳記に深入りせずに、今述べた長崎を通じての中国人との交流が持つ意味は、主に黄檗によりもたらされた中国文化は、明の遺民によりもたらされたものであり、江戸初期に中国から、偶然にもいわば世界最高の高い文化が流入して日本の書や篆刻を形成したのであり、其れが見直されるべき時に来ていることを中心に述べています。次の新しい『書道全集』がこの辺から書き直しが始まってもよいと構想されています。
【中村史朗氏の近代日本書道史の再検討】
◆本論稿も日本書道史の見直しを逼る内容です。明治以後の書道史を席巻したのは、「碑学」であり、その提唱者の日下部鳴鶴、中国から其れを伝えた楊守敬ばかりが注目されていました。しかし内藤湖南、長尾雨山といった京都中心とする人達の業績の見逃せないのであり、平安書道会を取りあげているのは、注目すべきであり、今後の近代日本の書道史が書き直される素地を提供しています。
【萩信雄氏の金石のたのしみ】
◆本稿は講演録を活字に起こしたものですが、金石を楽しむことを述べていますが、著者は書画骨董に造詣が深いことは広く知れ渡っています。しかし楽しむためには学問がなくてはならぬと言うのが信条です。金石学というのは、金石というものを通して、学問が楽しいものであり、ますますの深みに連れて行ってくれる貴重なきっかけであることを、身近な拓本を例に分かりやすく述べてくれています。
【連載、翻訳、資料紹介】も続き物ですが、新しい知見に満ちています。
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