◆今回、韓国の全州の書芸ビエンナーレで「書法・書道・書藝―中国、日本、韓国における呼び方と其の位置』と題して発表してきました。一般的に書のことを、中国では「書法」といい、日本では「書道」といい、韓国では「書藝」と言われるのが通常です。果たして其の来歴と現状がどうなっているのかを考えてみたいと思います。かつて中国文学研究の泰斗と称される吉川幸次郎先生は、私の恩師でもありますが、日本人であるにもかかわらず、「書道」という語が嫌いで、次のように述べています。「そもそも此の書道という言葉は、中国にはない言葉である。つまりこの言葉は和製の漢語なのである」と。「道」という言葉が持つ日本的な意味に対する好悪の感情が先にあって、中国にはない和製の漢語であると断言される背景には、秘伝、秘法を密かに匂わせる感覚を感じてそのように発言したのでありましょう。しかし手近な日原利国編『中国思想辞典』(?文出版・1984年)は、この種の辞典では珍しく「書道」の語を扱っていますが、次のように述べています。「我が国では、とくに芸術活動の場合を書といい、書道と切り離して呼ぶようになっているが、まだ一般には定着していない。一般には華道・茶道・歌道・武道などと並んで、師弟の間に伝授される伝統的な芸術とされ、哲学的・道徳的な道を強調し、中世的なイメージを持つことが多い。中国では、唐の張懐?の『書議』に「文章発揮して書道尚ばる」「其の道貴ばれて聖と称す」などというように、書の道という語が唐以後の書論中にみえるが、多くは「詩・書・画」のように書とよんでいる。現在では書法といい、精神修養的な意味を強くしていない。(田中有)」とあり、唐代の書論の中に「書道」の語が熟した形で見えていることを指摘しています。張懐?の『文字論』の「書道」の挙例は、張懐?だけでなく同時代の人たちによって「書道」の語が博く用いられていたことを示していますが、玄宗皇帝の道教への傾倒ぶりが極めて大きな影響を与えているのではないかと思われます。しかし総じて中国では「書法」が大多数です。
◆翻って、日本の場合、長い間、中国の歴史を踏まえると思われますが、「書道」が「書法」を、言い回しにおいて凌駕するような傾向がうかがえます。其の理由として考えられるのは、白河上皇の院政期には、日本の貴族社会のあり方は変化して、歌道、楽道、書道、蹴鞠など特定の家々が担当し、世襲するようになりました。特に和歌は世俗の事柄より高次で優れるとされ、「和歌三神」(住吉明神、玉津島明神、柿本人麻呂)は祭られ、自作の和歌を神仏に奉納することが急増しましたが、それとともに「歌道」の語は定着しました。「書道」も恐らく其の延長線上にあり、歌道と同じように書にも家柄があると意識されたからと思われます。
◆最後に朝鮮半島書芸史に遷りたいと思いますが、正直申し上げて私は朝鮮語が十分堪能ではなく、漢字文献に表されたものを証拠にして議論を進めてゆくことをお許し願いたいと思います。かつ朝鮮時代にハングルが成立して後と前の対比から、ハングル書道の今後について卑見を述べたいと思います。15世紀中葉の世宗王のとき、ハングルが創設されますが、世宗王没後は一般の日常文字としてはほとんど普及しませんでした。ところが草創から四世紀以上たってから、二十世紀になり、半島に民族主義の高まりを見るに及んで、ようやくハングルにも書芸的な創作、研究対象として関心が向けられるようになりました。今後の発展が期待されますが、日本の仮名以上の発展は見込めないと私は考えています。といいますのも、日本の仮名は、変体仮名を含めますと約二百字、万葉仮名を含めますと数千字が書の材料として存在しています。故に作品として十分な選択と創作の余地があります。しかしハングルは発音記号単体では百字に満たない、日本でいえばカタカナの世界に等しい存在で、十分な表現材料とはなり得ていません。ここで思い出されるのが、琉球の漢字と仮名の碑文の運命です。琉球でも外交の領域では漢文体がもっぱら用いられました。琉球が明を盟主とする国際秩序に参入したとき、意思疎通の媒体は当然漢文でしたが、総じて漢文はもとより、カナ文からも女性の影は完全に消えてしまい、同時にカナによる碑文の制作もはぼ無くなってゆきました。朝鮮半島におけるハングル書芸も、これと似た運命をたどらないか、思案します。
◆以上のように私は発表し、その後の討論にも参加しました。ちなみに要請論文は、劉正成ほかの五名の論文で、あと三名は優秀公募論文と云うことで発表と質疑応答が為されました。結果的に半ば中国の劉正成と小生が日中を代表するような形で、討論が進んだように思えます。韓国の書法事情はハングルが中心で、漢字書法がおろそかになっているようで、ハングル書道は批評するほどの域に達していないとも思われました。私は問題提起をかねて、琉球の例を挙げて、カナ碑文が実質的に消滅したが、漢字書道に比べると、表音文字は造形的に不十分であり、まして芸術として長期間、君臨し、存在するには困難であろうとの見解をも述べましたが、しかしビエンナーレで国際的に発信する姿勢は、見習うべきです。最近の日本の書道界は、毎日、読売、日展、日本書芸院の展覧会でも、内向きで、外国に向かって積極的に発言している人があまりに少ないと、韓国に来て強く感じました。韓国も書芸、漢字教育を復活すべきではないかと、もがいている人もいるように見受けられましたが、スマホの使用頻度があまりに高く、漢字を書くことが面倒になっている若者が大半であることも認識しました。 |