◆乾隆・嘉慶の時代より、清朝末期になると、金石を媒介としての密接な交流が生れる。つまり「金石のサロン」が発生するのである。その特徴はいわば「書斎の金石学」ともいうべきものであり、そうした古い金石学の藩籬を脱却して、フィールドを重視する野外考古へと向かうようになるのは、1923、4年の河南新鄭・孟津・洛陽を実地調査した馬衡(ばこう)の時代を待たねばならないのではあるが。
◆それはともかく、金石学の泰斗・陳介祺(ちんかいき)と親子ほどの年齢差があった清末を代表するこの分野の大家・呉大徴(ごたいちょう)とは、面晤の機会こそなかったものの、金石を討論の資として、密接な書簡のやりとりがあった。それは、『?斎尺牘(ほさいせきとく)』と題して石印刊行なされていり書簡集を見れば、如実にうかがえよう。この呉大徴と工部尚書の潘祖蔭(はんそいん)、国子監祭酒の王懿英(おういえい)らは、金石を介しての友人で、官界では同一の派閥に属していた。清末最大の収蔵家の端方(たんぽう・筆者の旧蔵していた唐の「姜遐碑」もその一(図版)で、これは1995年9月のニューヨーク・クリスティーズの目録に出品されたもの。かつて上海の有正書局より影印出版された底本で、王?運(おうがいうん)、?徳彜(ちょとくい)、ケ邦述(とうほうじゅつ)、李葆恂(りぼじゅん)、楊守敬(ようしゅけい)、張祖翼(ちょうそよく)、羅振玉(らしんぎょく)ら20数人の題跋が書き付けられている。
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有正書局影印本二種・姜遐碑と王居士?塔銘(『西?藝叢』総35期) |
◆詳しくは拙稿「金石のたのしみ・姜遐碑-?法をつぐもの」『書画船』第一号・二玄社、1997.2)、のち『金石書史研究』(萩信雄論集刊行会、2016.3所収参照)清一代の朝野の遺聞、社会経済・文化の事蹟を捜輯した徐珂(じょか)の『清稗類鈔』の鑑賞類・端忠愍精鑑碑版の項に面白い話柄を伝えている。王文敏(懿英)・盛伯羲(せいはくぎ:c)・端忠愍(たんちゅうびん:方)がともに某宿駅に逗留していた時のこと、盛cと王懿英が碑版に関して盛んに談論している際中、端方が質問をすると、王懿英曰く、「爾は挾優飲酒を知る耳(のみ)。何ぞ此れを語るに足らん(少しばかり意訳すると、「君はたいこ持ちの俳優とむだ話しをすることしか知らないくせに、どうして、金石を語る資格があるものか」)とたしなめられた。これを聞いた端方は机を叩いて怒り、三年後また会おう、と言って別れた。
◆その後、端方は琉璃廠(ルーリーチャン)で碑版に精(くわ)しい李雲従(りうんじゅう)を得て、宋明の拓本や碑碣を購入し相いともに朝から晩まで議論を重ねて、碑版の収集に狂奔(きょうほん)し、三年を経ずして「精鑑」の名を得たという。時には謀略によって稀覯の拓本を手に入れたこともあった(舊燕(陳蓮痕)「端方図謀劉熊碑」『芸林叢録=x第八編、商務印書館香港分館、1973)。端方はのち宣統3年(1911)、鉄道国有政策の実施によって、四川省民の暴動が発生し、四川総督代理としてこれを鎮圧しようとした。ところが、武昌に革命が勃発し、端方指揮下の湖北軍もこれに呼応して端方を斬殺してしまう。王懿英はこれより11年前、無念にも拳匪の乱(義和団の乱ともいう)の犠牲となっていたが、二人に共通する不慮の死は痛ましい。(つづく)
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